辛亥革命の武昌蜂起から100周年  古沢襄

中国近代史を学んだ者にとって10月10日は記憶される日である。1911年のこの日に中国・武漢の武昌で起きた武装蜂起をきっかけにして清朝を倒し、中華民国を建国する革命が起こった。「辛亥革命」・・・日本の明治維新に比すべき中国近代化の歴史的事件なのだが、1912年1月1日、南京に中華民国臨時政府が成立、孫文が臨時大総統に選ばれた。同2月、宣統帝溥儀が退位、清朝が滅んだ。

その武昌蜂起から10日で100周年を迎えた。9日に北京の人民大会堂で記念大会が開かれ、胡錦濤国家主席は重要演説で孫文たちを「民族の英雄」と称賛して「孫文の理想は、中国共産党が継承し、発展させた」と述べた。

中国共産党の正統性と成果を強調した胡錦濤演説だが、地下の孫文はどう思ったのだろうか。少なくとも軍事大国化し覇権の道をひた走る共産中国は、孫文が理想とした国家像とは違うと思う。

清朝史を紐解くと万里の長城を越えて満州族ら異民族が明王朝を打倒した事件はダイナミックで司馬遼太郎が作品の題材によく使った。異民族だが歴代の清皇帝は中国文化の発展に心を砕いた。清王朝は意外と長く続いたのだが、列強が中国に侵略してくると無策の権力集団であることを露呈した。

明治維新によっていち早く近代化を達成した日本を見習って孫文らが”満族排除”を掲げ武装蜂起を指導した。しかし辛亥革命以降は満族排除の思想は退潮し、革命スローガンも「打倒韃虜」から「五族共和」へと平和的になっていく。

辛亥革命直前には数万人が日本に留学していたが、この留学生たちに革命思想が浸透し、1905年に東京で「中国同盟会」が成立している。辛亥革命の指導者・孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲愷、朱執信、汪精衛等の革命指導者のほとんどが日本留学の経験者であった。日本の政財界も孫文ら支援している。

武昌蜂起(武昌起義)についてはウイキペデイアが詳しくまとめている。

<1911年3月、武漢新軍内部に文学社が組織された。共進会は陸軍第八鎮第16協第32標に集中して会員を集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士が文学社及び共進会に加入し、新兵総数の3分の1に達した。文学社と共進会会は新興知識層による革命組織であり、新軍兵士は革命の潜在力となるため、両者は新軍兵士を主要な工作対象とした。

1911年5月9日、清朝は鉄道の国有化政策を実施し、民間資本により建設された粤漢線、川漢線の買収を発表した。国有化政策は湘、鄂、川、粵の民衆の反発を招き、四川省が中心となり保路運動が展開された。

6月17日、四川民間各団体により“四川保路同志会”が結成され、咨議局議長の蒲殿俊が会長に、副議長の羅綸が副会長に選出され、各種宣伝活動や北京への請願運動が実施された。8月5日、成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会が開催、8月24日には市民によりゼネストが実施、9月1日には川漢鉄道会社の株主総会の指導のもとに「抗糧抗捐活動」が実施された。

9月7日、四川都督・趙爾豊は保路同志会の指導者を拘束、鉄道会社と同志会を押さえ込みを行った。この措置に激昂した民衆は総督衙門で請願行動を起こすと、趙爾豊は清兵に発砲を命令、請願行動中の市民30名が射殺される成都血案が発生した。9月8日、成都近郊の農民は同盟会及び会党組織である哥老會の指導の下に保路同志軍を組織して武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦が行われると、付近の住民も参加し、数日の内に20数万の規模となった。9月25日、同盟会会員・呉玉章、王天傑等は栄県の独立を指導している。清朝は民衆による武装蜂起と成都包囲を知ると端方に湖北新軍の一部を指揮させて四川での革命運動の鎮圧を命じた。

蒋翊武(左)と孫武(右)湖北新軍は張之洞による訓練された“鄂軍”であり、中級軍官以下多くの人材が官費で日本に留学していた影響もあり、革命党の影響力、特に共進会及び文学社の影響を強く受けていた。保路運動が民衆蜂起に変化した後、命令を受けた端方は湖北新軍を率いて四川鎮圧に向かったが、それにより武漢の清朝勢力が弱まったことを好機と捉えた革命党人士は革命蜂起の絶好の機会と捉えた。

1911年9月24日、文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義総指揮部)を組織、文学者の蒋翊武が総指揮に、共進会の孫武が参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理に選出された。起義総指揮部は武昌小朝街85号文学社機関に、準備局は漢口ロシア租界宝善里14号に設置され、1911年10月6日(旧暦8月15日)に武装蜂起が確認されたが、準備不足により10月16日に延期された。

10月9日、孫武はロシア租界で爆弾を製造している際に爆発事故が発生、孫武が負傷、ロシア当局の調査を逃れるために逃亡したが、武装蜂起の文書や旗などが押収され、秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。

湖広総督瑞澄がこの事件の発生を知るや全市に警戒命令を発し、革命党関係者の逮捕に当った。文学社の蒋翊武は清朝当局の動きを知り、予定を早めて武装蜂起を決定、各方面に文書を送付した。9日夜、彭楚藩、劉復基が起義総指揮部で逮捕、楊宏勝が弾薬輸送中に逮捕され、10月10日深夜に3名は斬首されている。

武昌起義での革命軍砲兵新軍工程営後隊正目(班長に相当)の熊秉坤等は予定を早めて蜂起することを決定、隊官の呉兆麟を決起軍臨時総指揮、熊秉坤を参謀長とすることを決定した。1911年10月10日20時(この時間は正確な考証を経たものではない)、程定国による武昌起義は発動され、決起兵士は軍の武器庫を襲撃、深夜になると文学社及び共進会の影響を受けた大部分の兵士が呼応した。呉兆麟、熊秉坤は決起部隊を指揮して総督府を攻撃、南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門を占拠、湖広総督・瑞澂は逃亡した。

10月11日未明、決起軍は湖北省咨議局大楼會議室に集結し、新軍八鎮十五協二十九標二営司務長・蔡済民により会議が招集され、軍政府の組織と都督人選が議論された。革命党の呉醒漢、徐達明等10数名以外、咨議局議長湯化龍、副議長張囯溶及び議員、旧軍官吳兆麟が参加した。

会議は湯化龍が議長となり進行し、呉兆麟により第21混成協統領黎元洪を都督とすることが提案され、立憲派により承認された。この時革命党勢力は黄興、宋教仁は武昌におらず、彭楚藩、劉復基、楊宏勝は被害を受け、孫武は爆発事故で負傷、蒋翊武は逃亡中であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪を都督、湯化龍を民政総長(一説には総参謀とも)に選出することが決定した。

10月11日、中華民国湖北軍政府成立11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、咨議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に発信している。

10月12日、革命党メンバーである第二十一混成協第四十二標士兵胡玉珍、邱文彬、趙承武等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置くと、趙承武は漢口を攻略、ここに武漢三鎮は革命勢力下に置かれることとなった。>

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