古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。
「中国の歴史と神話」カテゴリーアーカイブ
内蒙古・寧夏・甘粛・青海 古沢襄
西川一三さんの「秘境 西域八年の潜行」は、とにかく面白い。二日間かけて上巻を読み終えたところである。上巻は万里の長城の北、内蒙古自治区のバインタラ沃野から始まっている。その北にはモンゴル人民共和国がロシア・シベリアと国境を接している。
日本人のルーツ・ブリヤート人? 古沢襄
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「ブリヤート人」の記載がある。まだ書きかけの記載なので、断片的なそしりを免れないが、北アジアの歴史に関心がある方は、一応は目を通しておく必要がある。
さらには司馬遼太郎氏の「ロシアについて 北方の原形」は、北アジアの歴史に関心を寄せた司馬作品の覚え書きとも言うべきものである。「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を執筆した七年余り、司馬氏はロシアの特異性について考え続けたと言っている。
趙紫陽著、『趙紫陽極秘回想録』 宮崎正弘
幽閉時代の十六年間、趙紫陽は何を考えていたのか。守旧派のとの熾烈な権力闘争になぜ敗れたのかが了解できる。
「天安門事件」で学生への対策が生ぬるいとして長老達から糾弾され、突如、失脚させられた趙紫陽・総書記は世界のマスコミ、民主派の学生、知識人からいまも名声が高い。
龍国日本の”竜伝説” 古沢襄
麻布中学に合格した孫の竜太が、二泊三日で遊びにきて帰っていった。麻布中学校・高等学校は六年制の中高一貫教育校、ユニークな自由な校風に魅力がある。孫が大学をでて社会人になる頃は、私は八十五歳を越える。それまで生きられるか、それは神のみぞ知る。竜太の名付け親は芥川賞作家の辺見庸。
「獣祖(じゅうそ)神話」と「感精(かんせい)神話」 古沢襄
日本海大海戦の勝利の陰に 古沢襄
明治海軍は薩摩の西郷従道によって育てられた。兄の西郷隆盛が征韓論を唱えて下野して、薩摩に戻ったときに西郷従道は明治政府に留まっている。明治十年の西南戦争では多くの薩摩士族が西郷隆盛を慕って決起したが、西郷従道は陸軍卿代行になって明治政府の留守を守った。
インドガンと鳥インフルエンザ 古沢襄
シベリアのバイカル湖を訪れて印象的だったのは、渡り鳥の王者といわれるインドガンがこの地で繁殖し、厳寒を迎える前に若鳥を伴って、一斉にインド北部を目指して飛び立つ壮大な風景であった。
「新疆」の名を嫌うウイグル族 古沢襄
中国の新疆ウイグル自治区のカシュガルで起こったテロ事件は、邦人記者二人が中国の武装警官に拘束され、顔を殴られるなど暴行を受ける事件まで発生した。日本人にとって新疆ウイグル自治区は馴染みの薄いところである。
ドイツ海軍の膠州湾占領事件 古沢襄
大学時代の恩師が亡くなった。15日10時から東京・目黒の羅漢会館で告別式が行われるが、骨髄腫の身だから自宅でご冥福を祈るしかない。中国キリスト教史という特殊な専門分野なので新聞の訃報欄にも載っていない。ひっそりとした旅立ち・・・。
聡明で誇り高きブリヤート娘たち 古沢襄
日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。
雑学”の大家・司馬遼太郎 古沢襄
司馬遼太郎という作家はスケールの大きい”雑学”の大家だったと思うことが屡々ある。日本固有の私小説の世界とはチト違う。雑学という呼称に惑わされて軽く見てはいけない。ひとつの大作を書き上げる過程で様々な資料集めをして、それが記述の中で”独白”の形式をとって、さりげなく語ってくれている。
「キタイ」と「チャイナ」 古沢襄
ロシアに行くと中国のことを「キタイ」と呼ぶ。モンゴルも「キタイ」だ。欧米では「チャイナ」、トルコは「チン」というそうだ。戦前の日本は「支那」と呼んでいた。いずれも蔑視用語でもなければ差別用語でもない。支那大陸の三〇〇〇年の歴史から取った呼称だからだ。
虞美人草の伝説 古沢襄
虞美人草(ぐびじんそう)・・・ヒナゲシの別名で、夏目漱石の小説の題名としても知られるが、私は司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」にでてくる項羽の愛人・虞姫にまつわる虞美人草の物語に心惹かれる。