卑弥呼を演じるのは女優・浅野温子が適役 古沢襄

古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。

それでも古代の謎とロマンをかき立てる。卑弥呼の映画を制作するとしたら、女優・浅野温子が適役だという話がある。和泉市の大阪府立弥生文化博物館に卑弥呼像があるという。また奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で3世紀前半の大型建物跡が発見されたが、「卑弥呼の宮殿跡ついに発見か」と話題になった。

「魏志倭人伝」を遺した「魏」は220年から265年にかけて華北を支配した王朝。首都を洛陽に置いた。後漢末期、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の時代である。魏王朝の成立年代については、220年に曹操が没して、子の曹丕が洛陽を都とし、「魏」の皇帝になった時から数える。いずれにしても45年しかもたなかった短い王朝でしかなかった。

だが、華北に覇を唱えた曹操の元に多くの儒教的知識人が集まったので、曹操政権内で大きな権力を持っている。238年に邪馬台国の卑弥呼が朝貢にきたことが「魏志倭人伝」に記されたことから、同時代史料として戦後日本で一躍、注目されることになった。

その頃の日本は、まだ縄文時代の闇の中にある。文字もなかった。日本国家の成立を文字で記した古事記(712年)や日本書紀(720年)は奈良時代のことになる。それも大和朝廷の正統性を裏付けるために、いくつかの虚飾が施された。

だが、古事記や日本書紀をいちがいに排するのは間違っている。ギリシャ神話がヨーロッパの黎明期の神々を歌いあげた様に、古事記や日本書紀の神々を日本の伝統文化として大切にする心は失ってはいけない。その伝統文化を2000年にわたって日本人は大切にしてきた。

<「卑弥呼の宮殿跡ついに発見か」「邪馬台国論争に終止符?」。平成21年11月11日付の新聞は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で発見された3世紀前半の大型建物跡について、大々的な見出しで報じた。現地説明会には1万人以上が詰めかけ、纒向フィーバーがわき起こった。謎に満ちた邪馬台国の女王・卑弥呼。いったいどんな女帝ぶりを発揮していたのだろうか。

意外にお年寄りだった。「鬼道(呪術)につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大なるも夫はなし」

中国の歴史書「魏志倭人伝」は、卑弥呼についてこう記す。女王といえば、華やかで絶世の美女といったイメージが強いが、卑弥呼に限っていえば80歳ぐらいだったとの説が有力で、むしろ、おばあさんで独身。古代の“おひとりさま”だったようだ。

けれど、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)が所蔵する卑弥呼像は、肌もつややかで背筋もピンとした女性だ。さすがに、「年すでに長大」とはいえ、腰の曲がったおばあさんに復元するのも違和感があったのだろう。
「卑弥呼の映画を制作するとしたら、うってつけの女優は?」邪馬台国を探し求めて、纒向遺跡の発掘調査に長年参加している俳優の苅谷俊介さんに尋ねたことがある。

「迷わず、浅野温子さんでしょう」との答えが返ってきた。かつてNHKで放映されたドラマ「ダイヤモンドの恋」で共演した際、2人はまさに桜井市内で発掘調査をするという役柄だった。

苅谷さんにさらに理由を尋ねたが、「これと言った理由はきちんと説明できないけど、浅野さんも卑弥呼もなんか飛んでる感じがするんですよね」とにやりと笑った。

魏志倭人伝によると、正始元(240)年に魏は、卑弥呼に対して金印とともに銅製の鏡を贈った。卑弥呼は中国王朝の権威を帯びた鏡を手に、自らの“美(び)貌(ぼう)”にうっとりとしていたのだろうか。

◎卑弥呼は強かった?

魏志倭人伝によると、卑弥呼が女王になったのは、自らが武力で他の勢力を抑えたからではなかった。もともと男性の王が70~80年間治めていたが、倭国で戦乱が起き、長期化。そこで各国の王たちが話し合って擁立したのが卑弥呼だった。彼女は、決して自らの力で女王になったわけではなかったのだ。

卑弥呼が政治を行った様子について魏志倭人伝は、「男弟あり。補佐して国を治める」と書かれている。さらに、「王となってより以来、見る者少なし」とも記載。卑弥呼は人知れずどこかに閉じこもり、実際の政治は男弟が行っていたようだ。

しかし、全く統治能力がなかったともいえない。多くの研究者は、卑弥呼が中国に使者を送った景初3(239)年という時期に注目する。この直前、中国の覇権争いは大きな転機を迎えていた。魏王朝と対立して遼東半島を支配していた「公孫(こうそん)氏勢力」が238年に滅亡し、魏が一気に勢力を握ったのだ。

卑弥呼が使者を送ったのはその翌年。中国情勢を素早くキャッチし、最強となった魏王朝にすかさず服属の証しを立てるという「たぐいまれな外交能力」の持ち主だったという。

時は今から1800年前。卑弥呼は日中関係の礎を築いた立役者でもあった。

◎卑弥呼の最期

神の声を常に聴き続けた卑弥呼も、永遠の生命までは手に入れることができなかった。

「卑弥呼、以て死す」。魏志倭人伝は簡潔明瞭(めいりょう)な表現で女王の最期を記している。病死なのか老衰なのか、はたまた暗殺なのか…。いっさい詳細は触れていない。

しかし、女帝の死後、倭国は再び混乱に陥った。ポスト卑弥呼として男王を立てたが各国は納得せず、再び戦闘状態になった。そこで卑弥呼の一族の女性、壱与(いよ)が女王になり、国は安定したという。

壱与は、卑弥呼とどういう関係にあったのかは分かっていない。ただし、卑弥呼の外交政策を見習うかのように、中国に使者を次々に派遣した。

◎卑弥呼の墓を探し求めて

ところで、卑弥呼の墓はいったいどこにあるのだろうか。邪馬台国論争の切り札ともいえるこの問題も、なかなか決着が見えない。

最も注目されているのが、纒向遺跡のある桜井市の箸墓(はしはか)古墳だ。全長280メートルの巨大な前方後円墳で、3世紀中ごろの築造という。宮内庁の陵墓参考地になっているため、発掘調査ができないのを惜しむ研究者は多い。

箸墓古墳が築かれる以前の前方後円墳といえば、纒向石塚古墳など100メートル前後の規模しかなかったのが、箸墓古墳では一気に3倍近くに大きくなった。「この巨大化こそが、神秘のベールに包まれた卑弥呼の墓にふさわしい」という説も学界には根強い。

卑弥呼の墓について、魏志倭人伝は「大きな塚を造る。径百余歩」と記す。この「径百余歩」の墓を日本中で探せば、卑弥呼の墓にたどり着くようにも思える。

ではどこにあるのだろうか。当時の「一歩」は145センチと考えられ、直径145メートルの円墳こそが卑弥呼の墓ということになる。しかし、これまでの発掘調査では、日本中どこを探しても3世紀中ごろのこの規模の円墳は見つかっていない。

ここでも注目されるのが、箸墓古墳だ。後円部の直径はなんと150メートル。まさに「径百余歩」に相当する。「卑弥呼の墓は箸墓古墳であり、当初は円墳だったのをのちに前方部を付け加えた」との説も打ち出された。ただし、桜井市教委などの発掘調査によって、箸墓古墳は後円部も前方部もほぼ同時期に築造したことが判明し、この説は少々怪しくなっている。

最近の考古学界では、邪馬台国畿内説の研究者でさえも、卑弥呼の墓については箸墓古墳説と、纒向石塚古墳など100メートル級の前方後円墳説に二分されている。

各国の王によって擁立された卑弥呼は、絶対的権力をもった女帝ではなかったとの見方が強まっており、箸墓古墳ほどの巨大古墳に葬るのは不自然ともいわれる。むしろ、戦乱のない安定政権を築いた壱与こそが、箸墓古墳の被葬者にふさわしいというわけだ。

邪馬台国は畿内か九州か。卑弥呼の墓は-。謎はますます深まるばかりだ。(産経)>

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