「沢内年代記」は、岩手県西和賀町が「沢内通り」と呼ばれていた時代から伝承された年代記である。
1673年(延宝元年・今から337年前)から始まり、1900年(明治33年)まで記録されている。この年代記は、年毎の農作物の作柄や出来事を記した記録集である。
誰が記録し始めたのか不明である。年代記にはいくつかの異本がある。おそらく何時の時代かに編年されたものに、何人かの人々が追記を重ねていくうちに異本が生じたものと言われている。
かっては、西和賀町の各集落には、たくさんの写本が散在していたらしい。現在は9本の異本が残っている。これら9つの異本を比較すると、3つの系統に大別できると言われている。
その一つは、旧湯田町左草を中心に新田郷一帯の記録が詳しく記録されている左草系のもの。
その二は、旧沢内村新町の代官所を中心に、行政面にやや詳しい記録の新町系のもの。
以上の二つが大きな柱である。しかし、もう一つ旧湯田町草井沢の利助に伝わる本は特徴のあるものである。
その三は、草井沢利助に伝わる、50数年間にわたり、気象、地震、農作のみを記録した草井沢本である。2000年(平成12年)旧沢内村教育委員会は、「沢内史談会」に依頼して、主たる異本4種類を一冊にまとめ、「沢内年代記ー総集編」として発刊した。4種類とは「巣郷本」「下幅本」「白木野本」「草井沢本」である。
ここでは「沢内年代記ー総集編」を年代順に解読(読み解く)しようとするものである。
《奥州和賀郡澤内開闢之事》
年代記の始めに記されているのが、(おうしゅうわがぐんさわうちかいびゃくのこと)という沢内通りの始まり物語(開闢伝説)である。
その1・・・沢内通りは昔、湖であった
沢内通りがどのようにして代々伝わってきたかを考える。欽明天皇・用明天皇の頃(欽明天皇は29代・用明天皇は31代の天皇。西暦538年から580年)までは、住民はわずか10戸の家に住むだけであったという。
孝安天皇(第6代天皇。紀元前392年から紀元前291年の天皇)の頃までは、千枚平(現在・湯田ダムの堤防付近)あたりは、谷川がなく、山がぴったりと塞がり、沢内通り一帯は大きな湖であったという。
水は青黒く満ち溢れ波立ち、周囲は高く険しい山々であつた。人間が通るような道などなかった。見たこともない恐ろしい獣や怪鳥が住み着いていた。
湖は南北10里(約40km)に近く、毒龍毒蛇がいて人まで喰ってしまうという。たまたまこの湖に迷い込んだ人は、二度と戻ることはなかったという。
その2・・・住吉の神様の力
ちょうどその頃、住吉の神様が陸奥に来られた(光臨)。神様は、ここに住む人々の不安を無くそうと、千枚平の山を神通力で突き崩された。たちまち沢内湖水は流れ落ちていった。百日間ほどで、湖水は干上がり陸となった。
ついで、神様は神箭(かむら矢)で、悪獣猛禽毒竜毒蛇などすべて退治された。その後は人々の交通もよくなり、人家も出来はじめ、落人とか隠人が住むようになった。
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もともとは湖水であったから、小繋澤(こつなぎさわ)の北西から白木峠の谷川の水が溢れ、秋田の横手の方に流れていた。奥州(岩手県側)から見れば羽州(秋田県側)だと覚えた。羽州から見れば奥州だと覚えこまれた。したがって、国主領主など決まった殿様はいなかった。年貢とか税金を取り立てる支配者もいなかった。
その3・・・平泉と平家の滅亡
奥州の領主藤原秀衡とその子泰衡が、鎌倉幕府の源頼朝に攻め滅ぼされた。これは壇ノ浦で平家か滅び(1185年)、頼朝が天下を統一したからだ。頼朝は平家の一族、残党の根をことごとく無くしてしまおうとしたためである。平家の一族は身の置き所を無くし、山奥の谷間や洞窟に身を隠し、生き残る者は少なくなった。
そのような時、平家の人々は日本海を小船に乗り込み北上した。雑役人になり、漁師や村の年寄りに成りすまし、網の束に隠れ、あるいは農夫に姿形を変え、奥州や羽州の浜裏に船を寄せ、山々、谷々に隠れ忍んだ。
この沢内にも隠れ住む人が多かった。安徳帝も隠れたといわれる。安徳天皇時代の末(1180年代)、羽州の村山郡(山形県か?)にいた平家の人々の多くがこの沢内に移り、隠れ住んだ。
その理由を考えると、平家が西国壇ノ浦で滅んだ後、奥州では藤原泰衡の一族が滅んだ。
藤原氏の家臣一族は行き場を失い、仕事と生活費を失い、彷徨い続けなければならなかった。あちこちの庶民に成り下がり、慣れない仕事にも我慢しなければならなかった。だから、頼朝には恨みがあっても、恩義を感じる人などいるはずがなかった。
そのような訳で、沢内の人々は平家方の落人に哀れみと同情を寄せ、親しみ深かった。
その4・・・平家の落人一家の悲しみ
ここに平家の落人で九州から来た武士一家が暮らしていた。
夫は肥後(熊本県)、妻は筑後(福岡県)の出身であった。平家一族と共に隠れ、暮らすうちに男子二人をもうけ慈しみ育てていた。
夫婦は平家が栄えていた昔を思い出しては、話し合うのであった。平家が栄え、いろいろな役についていた頃は、大変に高貴なお方にも付き合いがあった。
月や花を見ては和歌を詠み、このような苦しい生活というものは、古い本とか物語に出てくるもので、実際にあるとは思わなかつた。などと嘆き話し合うのであった。
荒れた草屋に貧しく暮らしていた。朝晩の食事も満足に摂らず、二人の男子には弓矢の使い方も教えることが出来なかった。それどころか、遊びごとにも鋤、鍬などの使い方を教える始末であった。
平清盛という人は本当に悪い政治をしたものだ。全国いたるところで評判悪く、天地の神々にも見放され、守ってもらうことが出来ないでしまった。
そのため、子孫はたちまち滅んでしまい、武士の跡継ぎも出来ず、ろくな仕事にもつけずに落ちぶれてしまった。この悲しさを誰が知っているのだろうか。将来は一体どうなるだろうと考えると、夫婦は泣き明かすことしかできなかった。
その5・・・魔事が澤の魔性
その頃、和賀郡の猿橋、「魔事が澤」と秋田角館の奥「キョウジカ窟」に魔性(化け物)の棲家があった。
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この魔性は、季節や天候に関係なく、昼夜の別もなく、人里に現れ、人や牛馬、羊、犬豚、鶏等、手当たり次第に取り喰らうのであった。
人々は安心して暮らすことが出来ず、多くは家を捨て、故郷を離れ、他の村々に逃げ去った。逃げずにいた者は、一家全員喰い尽くされたというが多かった。
けれども、九州から来た浪人の高橋の某は、つらい仕事をしながら妻子を養い育て、薪を採るため、あちこちの山谷に暇なしに出かけていた。
その6・・・無残、高橋の某
建久9年(1198)10月(旧暦・現在の11月から12月)のことであった。この日も高橋の某は山に入って行った。雨が降り続き、霰まじりの時雨となった。雲の成り行きもいつもと違い、これはただごとではないぞと思った。同時に、真っ黒い雲が空一面に広がり、稲妻が盛んに光り、轟音とともにあちこちに雷が落ちた。しまいには、何処をどのようにに行けばよいのか分からなくなってしまった。
これは魔性の仕業と気づき、腰に着けている山刀を抜こうとする手を、魔性は軽々と掴み上げ、空中高く持ち上げようとする。
心は勇ましい武士ではあるが、戦う武器を持ち合わせていない高橋の某は、ついに魔性のために命を奪われてしまった。
妻は、このような事件をまったく知らず、夫の帰りを待ち続けた。夫は帰って来なかった。 冬の日は、たいへん暮れやすい。日は早くも西山に沈み、狐や猿の声が梢を揺るがすように響き渡っていた。
妻は二人の子供を袖の下に覆い、夫の帰りが遅いのはなぜか、心配でたまらなくなってくるのであった。
その7・・・夫を探す妻
夫の帰りはあまりにも遅い。もしや魔性のために何かあったのではと思うと、妻は動悸がして、居ても立ってもいられない気持ちになるのであった。
10月15日(旧暦)、この夜は満月が道端の草花の露を光らせ、庭の草むらの陰には赤く目を光らせる獣たちも見えた。尾花の根元では虫たちが、争うように鳴いていた。心細さは限りなく、妻はその夜、泣き明かした。
次の日、妻は夫の行方を捜すため、二人の兄弟を家に残し、あてもなく山深く入り込んだ。ここかしこ捜したが、夫の姿は見つからなかった。
何気なくあたりを見ていると、山裾の中に烏が群れ騒いでいる場所があった。不思議に思いながら近づいて見ると、何と、人の骨柄が散らばっていた。肉はみな喰い尽くされ、誰であるのか見分けることができなかった。
しかし、近くに散らばった着物を見ると、捜し求めている夫のものに違いなかった。「どうして、こんことになったのか」「なんで、こんな姿になったのか」妻は前後を忘れ、口説き、嘆くのであった。
どんなに長い時間、口説き、嘆いても、亡くなった者は生き返ることはない。世の常である。妻は、どうせなら自分も一緒に死にたかった。死のうと思った。しかし、子供たちのことを思うと死ぬことはできなかった。むなしく骨を拾い集め、夫が形見に残した着物に押し包み、泣く泣く家にたどり着いた。
妻は一人で土を掘り、夫の骨を埋めるのであった。世の中を生きていくための業もあるのに、夫の別れは悲しく、口惜しい限りであった。
これまで育ててきた二人の子供の将来も、本当に頼りないものに思えてならなかった。やがて、この子たちも魔性に取られてしまうのではないか。将来も、このように生きていくことはできないのではないか。などと、心配し、心を病む日々が続くのであった。
その8・・・四人の狩人
このように暮らしている内に、人の足音はもちろんのこと、落ち葉や栗の落ちる音もなくなった。ある日、そのような季節には、不似合いな足音が聞こえた。
さては、魔性が来たかと、妻は兄弟を袖に包み隠し、息を止め静かにしていると、「どなたか、居られますか」という声がする。
「どのような方ですか」と尋ねたところ、「ご心配には及びません。 私どもは山や谷を渡り歩いている狩人です。わけあってこの地に来たのですが、日も沈みますので、どうか一晩泊めてくたさいませんか。」という。
妻は久しぶりに聞く人の声をうれしく思い、「こんなところでも、よろしければ、どうぞ泊ってください。」といいながら、網戸を開けてよく見ると、四人のたくましい狩人であつた。
しかも、血気盛んな年頃で、猟犬(またぎ犬)を七匹も連れている。
妻はたいへん喜んで、家にいれた。四人の狩人のために、妻は家にあるもの全部を様々に料理してご馳走したことであった。
「さて、あなた方はどのような方たちであるのでしょうか。さしつかえなければ、教えていただけませんでしょうか。」というと、「私どもは、住吉の神様のお告げによってこの里に来たのです。神様のお告げは、どんなものであるのか。お告げの意味がわかり、役目を果たさなければ帰れません。まことに申し訳ございませんが、しばらく、泊めていただけませんでしょうか。」という。
妻はたいへんうれしく、頼もしく思い、「そのような訳がございますのなら、ここは見るのも憎い魔性の住んでいるところです。私ども母子の難儀も救っていただけませんか。この里の恐ろしさを聞いておられるこ とと思いますが、実は私の夫も魔性に命を奪われ、私たち母子三人いつ命をうばわれるか分かりません。どうか救ってくださいますようにお願いします。」と涙ながらに話すのであった。
妻の話を聞いた狩人は、少しも恐れる様子もなく、「いやはや、面白いお話である。」「時の経つのは速いものよ。・・・もう夜中の十時になってしまった。お母様は子供たたちと一緒に寝床に入って休んでください。」というのであった。
妻は、「私にも寝ずの番をさせてください。」というのであったが、「女や子どもでは、足手まといですから。」といわれ、「それでは、しばしの間休みます」といって、妻は寝床に入るのであった。
妻子が寝た後、四人の狩人たちは「神様のお告げの意味は、このことだったのだ。今、やっと分かった」と話し合い、お互いに心が勇み立ち、寝るに寝られず、「魔性よ。来てみろ!」と、魔性が現れるのを待っていた。
その9・・・魔性現る
間もなく、後ろ窓の隙間から稲妻が光り、雷が轟き渡った。魔性が飛んで来るためであろうか。山河が揺れ動き、天地が崩れてしまうような雷が響き続けた。同時に、生臭い風がどっと吹いてきた。
覚悟はしていても、これほどとは誰も信じられないような異常な事態となつた。四人の狩人は、心を一つに合わせ、弓に矢をつがえ、鑓の矛先を揃え、備えに隙なく万全の構えをとった。
その時、予想もしなかった後ろの窓を、電光石火の早業で蹴破り、魔性が飛び込んで来た。 猟犬は間髪を容れずに飛びつく。
魔性はもともと自由自在に飛び回ることができる。犬をかいつかみ、捕っては投げ、捕っては投げ、落花になれと投げ散らす。
その間に四人の狩人は強弓を引いては矢を放つ。矢は一つとして外れることなく魔性に突き刺さる。弛まず突き出す鑓は、魔性を突き続ける。
魔性は怒って、うめき声を天地に響かせ、毒気を吐いた。その臭いは家屋中に充満し、耐え難いものであった。が、しかし、壮年血気の狩人四人、少しも怯まず戦い続けた。
その10・・・魔性退治される
魔性はしだいに重症を負い、よろよろとよろめくようになってきた。狩人たちは、ここぞばかり攻め続け、手足、翼を切り離し、ついに魔性を切り伏せた。
「さあー、灯りを」と声かければ、妻は灯りを持って近寄り、「ついにやってくれましたか。ありがとうございます。ありがとうございます。」と言いながら、二人の子どもを揺り起こし、かいがいしく太刀を持ち出し、「夫の敵、兄弟が親の敵、思い知れ!」と、気の済むままに魔性を切り裂くのであった。これは実に、武士の妻の姿勢を現すものであった。
その11・・・魔性の正体
そうこうしている内に、夜が明けた。魔性の姿形をよくよく見ると、身の丈は一丈五尺(1丈は10尺。1尺は約30.3cm。15尺×30.3=約454cm)。顔には三つの目がある。鼻嘴は鷲のようである。四つの足は黒く光り、黒漆のようである。爪は折れ曲がり、龍のようである。鼻嘴の周りには毛が生えていて熊のようである。左右の翼は、コウモリに似て、表面は熊のような毛に覆われている。
尾は、鷲の尾の形に似て、肉がついている。尾羽にあたる部分は、一つ一つが鋭く尖り、刃のようである。
異様な臭いが辺りに立ちこめ、近寄ることができなかった。それでも四人の狩人はこの魔性を屋外に引き出した。
その12・・・妻の喜びと感謝
妻は大変に喜び、家の一間に引き返し「塗篭籐ノ弓」(籐を巻き込み、漆を塗りこんだ上等の弓か)四張、箙指(えびらさし。矢を入れて背に背負う道具)を添えて持ち出してきた。
それを四人の狩人の前に置き、「皆様のお情けで、二人の子どもも元気で、このように夫の敵、親の敵を討つことができました。これ以上にうれしいことはございません。ここにあります弓矢は、私どもが世に認められていた頃、夫が大事にしまわれていた一族の弓矢でございます。ちょうど四人に合う数ですので、喜びと感謝の記念にお受け取りください。」というのであった。
四人の狩人は、「見たこともない弓矢。住吉の御神様が、私どもに宝を授けると申されたのは、このことでございましょう。辞退することはできません。御志をお受けいたします」と、三度も頭を下げ、慶び、押し戴くのであった。
その13・・・村人のよろこび
魔性から免れ、生き残った村人たちは、魔性退治を伝え聞き、あちこちから馳せ集まり大喜びをするのであった。
誰もが、「親、子、兄弟の恨みをよくぞ晴らしてくださいました。ありがとうございました。」と、四人の狩人にお礼をいい、手を合わせて拝むのだった。
村人たちは、思い思いの贈り物を、「心ばかりです。どうかお受け取りください」と差し出すのだった。四人の狩人は大いに満足し、「この度の魔性退治に当たっては、神様のお告げがございました。そのことを皆様にお話しましょう」と、姿勢を正し、正座して話し出した。
その14・・・狩人、神のお告げを話す
「私ども四人は、今月(旧暦十月)15日、またぎ犬を引き連れて、これまで行ったことのない、初めての山野に入りました。誰に招かれたわけでもないのに、奥山深く狩りに行ったところ、秋田仙北の籠山で日が暮れてしまいました。
一日中、山野を歩き回ったものですから、疲れが出て、木下で野宿することになりました。昔、中国の「東方朔」という詩人が、<一人山林の中に居ると、人と語り合いたいと願うのだが山中はただ、狐、猿のすさまじい叫び声だけである・・・ >と書き記しているけれども、私どもはただの人ですから、そのようなこととは関係なかった。
むしろ、中国は元の時代の「佛鑑」という僧が、道に迷い、虎の出そうな山奥に入り込み、虎とともにぐっすり眠ったとあるように、私どもも犬ともども、ぐっすりと眠ってしまいました。
どれほど眠ったのでしょうか。白髪で眉毛が長く、目がかくれようであるが、眼光鋭く鮮やかで、ただの人とは思えない老人が私どもに向かってきて言うのでした。
《あなた方は、獣や鳥を獲ることを仕事としているのだな。よいか、これより北に沢内というところがある。そこへ行って、必ず人々の災害を救い、宝物を手に入れなさい。吾は、何を隠そう住吉の神である。怠けてはいけませんぞ。吾の言う通りにしたら、あなた方の将来は保証する。吾は、孝安帝(第六代天皇。紀元前392年から紀元前291年)93年3月中の5日、和賀郡沢内の湖水を開き、毒龍はじめ悪さをする様々の悪魔を退治し村人を護った。世の中が進み豊かになったものだから、村人は怠け始め、悪魔は春の草々が雨降るごとに生え繁るように増え続け、日夜村人を悩まし苦しめている。
あなた方は、四つの神社・社を創りなさい。神社を建てる所は、東西に三百歩、南北に三百歩に定め、祭祀(まつり)を怠けてはなりません。吾、世にある内は、村人を落ち着かせ、護るものである。》と、話されると、かき消すように去られました。
私たち四人は、後ろ姿を三度伏して拝み、家に帰れず急ぎこの村里に来たのです。 来て見れば、このような幸せに出会うことができました。」
その15 ・・・四つの神社創建
四人の狩人は、「これから、四つの神社を定めます」と、言い、魔性の体を四つに断ち切った。首は坂本、手は川尻、胴は湯田村、足は野々宿の四箇所に神社を建て、その下にそれぞれ埋めた。
「住吉の四社の神様方、悪い悪魔が再び来ませんように、どうかよろしくお願いします」と、村々の老若男女が大勢集まり、清めの神楽を奉納し、湯の花を捧げてお祈りするのであった。 その時である。群集の中から七歳の女の子が突然現れ、はっきりした口調で、神様の言葉を話し始めた。
その16 ・・・七歳の女の子が話した
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「吾は、この地を切り開き悪魔を降伏させた。その後、四つの神社に居座り、末長く良き人々を護り、励ますことを怠けずにやってきた。
けれども、村人たち、氏子たちは世の中の豊かさに流され、信心する心は日に日に薄くなり、終には神社はないのと同じになった。
神の力は衰えてしまい、今のようになってしまったのである。これからは、忠孝、敬愛の道を忘れずに、信心をわすれることのないようにせよ。」
話し終わると、七歳の女の子は、夢から覚めたようにキョトンとしているのであった。集まった人々は、「ありがたや。ありがたや。」と、繰り返し手を合わせ拝み続けるのであった。その後、信心を怠る者はなくなったということである。
その17 ・・・七匹の犬たち
七匹のまたぎ犬は、魔性のために殺されてしまった。狩人たちは、悲しみ、哀れに思えてならなかった。沢内の人々も、この犬たちを粗末にはできないと思ったことであった。
そこで、これからも沢内を護ってください。盗賊を防いでください。という願いを込めて七箇所に丁寧に葬った。これを「七鼻」と名づけた。(注:七鼻は沢内の北から1.山崎鼻=わかはた 2.山鼻=おぎのさわ 3.弁天鼻=さるはし 4.飯豊鼻=いんで 5.葦鼻=しんまち 6.藤鼻=ぶんわけ 7.長者鼻=しみずがの以上、七箇所といわれている)
その18 ・・・四人の狩人と高橋の妻子
四人の狩人は、村人に別れの挨拶をし、高橋の妻には「多くのお志を戴きありがとうございました。感謝の心は言葉では言い表すことができません。これからは、お幸せでありますように・・・」と言い残して、東南の方へと去って行った。
さて、高橋の妻は、夫の敵は形の上では退治したのであるが、武士の心の強さも緩みがちになっていった。
仕事にも集中できず、夫のことを思うと悲しくて、涙で袂が乾くことがなかった。この世が良くなることを待ってもしかたがないと、化粧をおろし、墨衣に着替えた。翌年、正治元年己未歳(1199)四月八日、病に臥して亡くなったことであった。
兄弟二人は太田に家を建て、仕事に励み、村長(むらおさ)となつて栄えたということである。(奥州和賀郡沢内開闢之事:終)
[沢内開闢之事の原文の筆者は、二人の兄弟の名前の由来について、次の要旨を書き足している。高橋夫妻は故郷を思い、慰めのため子どもの名前を故郷の「肥後」「筑後」とした。それを後世に「日五」「月五」としたのは間違いである。
尚、「年代記総集編」には、「沢内四社大明神併太田村八幡宮観世音略縁起」(治部文書)があるが、ここでは七匹の犬は死なずに元気。四人の狩人は諏訪・住吉・加茂・春日の神の仮の姿とある。兄弟の名は「日五」「月五」と記されている。]