19世紀の初め鎖国日本では、長崎だけが唯一の外国との接点地で特にオランダとは密接な関係にありましたが、このころになると相次いで、長崎にアメリカ船、イギリス船が姿を見せるようになりました。
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「世界」の「戦後保守政治の軌跡」 古沢襄
今では書店にいっても見かけない岩波書店の月刊誌「世界」だが、戦後の混乱期からベトナム戦争にかけて知識階級が一番読んだ雑誌ではなかったか。その「世界」の一九八〇年四月号から翌年の一九八一年四月号に十回にわたって「戦後保守政治の軌跡」と題した鼎談が連載された。
「沢内年代記」を読み解く(六) 高橋繁
正徳元年 辛卯(カノトウ・・・1711年の記録)
《注・宝永六年(1709年)1月10日、徳川五代将軍綱吉が没する。5月1日に、綱吉の兄綱重の子を養子にした家宣が六代将軍となる。「生類憐れみの令」は廃止された。「日本歴史年表」より》
①節気の「寒」に入って三十日間 少しの風も吹かなかった。 「少しの風も吹かない30日」の天候はどんなものか。晴れの日が30日続いたのだろうか。吹雪がないのだから、過ごし易かったと思われる。米や農作物の作柄に直接関係のない、冬季での無風であるのが残念であったに違いない。
「沢内年代記」を読み解く(五) 高橋繁
宝永元年 甲申(キノエサル・・・1704年の記録)
①「改元有テ宝永トナル」 年号が代わって宝永になった。幕府の財政は厳しさを増す一方であったので、勘定奉行、荻原重秀を中心に財政の建て直しに懸命であった。貨幣改鋳し、幕府役人の整理などを実施していることから、財政改革をし豊かな年にするという意味からの改元であるように思われる。
「沢内年代記」を読み解く(四) 高橋繁
元禄元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1688年の記録)
①越中畑(えっちゅうはた・岩手秋田の県境・南部藩の関所があつた)の者たちが、謀議をこらし、山内村(秋田横手市)の南郷弟助という人の家に、夜、強盗に押し入った。
「沢内年代記」を読み解く(三) 高橋繁
延宝七年 己未(ツチノトヒツジ・・・1679年の記録)
①青倉山の岩穴
細内村(ホソナイ村)に、次郎右エ門という浪人がいた。この浪人、岩倉山(イワクラヤマ)に岩穴があることを知ると、
松本徹『風雅の帝 光厳』(鳥影社) 宮崎正弘
稀にしか味わうことの出来ない寂寥と哀切。読了ののち、一言の感想をいえば、歴史の寂しさ、絶望、生きとし生けるものの冷酷さと残酷さである。そして全編に漂う容易ならざる虚無。いやこれこそが日本人の情感なのか。
鎖国から開国、独立へ 平井修一
産業革命による近代化のツナミが極東の桃源郷のような小さな島国に押し寄せてきた。
徳川幕府の鎖国政策は元和2(1616)年、シナ(明)以外の船の入港を長崎・平戸に限定することから始まり、寛永12(1635)年にシナ・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、日本人の渡航と帰国を禁じたことでほぼ完成した。
日本古代史の扉を開く二つのニュース 古沢襄
古代史に関するニュースが相次いでいる。一つは推古天皇(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)にかけての約200年間にわたる「天皇のよろい」の一部が京都府の長岡宮跡から発見された。
♪いい湯だなアハハン 平井修一
先日、久し振りに風呂に入った。と言ってもシャワーだが、43度のお湯を浴びて、全身をシャボンでしっかり洗った。20分もかかったから、風呂嫌いの小生にとってはほとんどショック体験である。
「沢内年代記」を読み解く(二) 高橋繁
〔延宝元年 癸丑・・・1673年の記録〕「沢内年代記」の記録の始まりである。
①「寛文十三年に年号が変わって延宝となった」と記されている。
癸丑(ミズノトウシ)は「十干十二支」の組み合わせの年であるから変わらない。年号が変わることを「改元」という。中国では漢の時代から皇帝の交代、治政方針の改正に合わせて改元された。
アイヌとの同化・融和・共生の歴史 伊勢雅臣
■1.「先住民族の権利に関する国際連合宣言」
平成20(2008)年6月6日、衆参両議院において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。それは次のような文章から始まる。
先住民の参加色濃いバンクーバー五輪開会式 古沢襄
カナダ・ヨーク大学のテッド・グーセン助教授の「暗夜行路における自己と自然」、カナダ・ヴィクトリア大学助教授の「泉鏡花の超自然主義」、カナダ・トロント大学のアンソニー・リーマン教授の「風景の川、文体の川」という三論文の邦訳テキストを読んだことがある。
縄文的なものと弥生的なものの二面性 古沢襄
現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると
卑弥呼を演じるのは女優・浅野温子が適役 古沢襄
古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。
「沢内年代記」を読み解く 高橋繁
「沢内年代記」は、岩手県西和賀町が「沢内通り」と呼ばれていた時代から伝承された年代記である。
1673年(延宝元年・今から337年前)から始まり、1900年(明治33年)まで記録されている。この年代記は、年毎の農作物の作柄や出来事を記した記録集である。
内蒙古・寧夏・甘粛・青海 古沢襄
西川一三さんの「秘境 西域八年の潜行」は、とにかく面白い。二日間かけて上巻を読み終えたところである。上巻は万里の長城の北、内蒙古自治区のバインタラ沃野から始まっている。その北にはモンゴル人民共和国がロシア・シベリアと国境を接している。
日本人のルーツ・ブリヤート人? 古沢襄
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「ブリヤート人」の記載がある。まだ書きかけの記載なので、断片的なそしりを免れないが、北アジアの歴史に関心がある方は、一応は目を通しておく必要がある。
さらには司馬遼太郎氏の「ロシアについて 北方の原形」は、北アジアの歴史に関心を寄せた司馬作品の覚え書きとも言うべきものである。「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を執筆した七年余り、司馬氏はロシアの特異性について考え続けたと言っている。
縄文土器が生まれる前の日本列島 古沢襄
多くの日本人のルーツはシベリアのバイカル湖周辺という北方系説が確立したのは、DNA鑑定が決め手となった。それまでは古事記や日本書紀で伝わってきた神々の神話の世界に起源を求めた南方系説が有力であった。
大彦命と建沼河別命が会津でめぐり合った 古沢襄
会津の名称について地元の人から「3世紀頃、四道将軍の大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、出会ったところが”相津”だった」と聞いたことがある。こういう話には滅法、取り憑かれる私なので古代史に詳しい学者の知見を調べまくった。
趙紫陽著、『趙紫陽極秘回想録』 宮崎正弘
幽閉時代の十六年間、趙紫陽は何を考えていたのか。守旧派のとの熾烈な権力闘争になぜ敗れたのかが了解できる。
「天安門事件」で学生への対策が生ぬるいとして長老達から糾弾され、突如、失脚させられた趙紫陽・総書記は世界のマスコミ、民主派の学生、知識人からいまも名声が高い。
原始仏教考 信濃大門
一夜賢者の偈 「いま、この瞬間」の重要性については、エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(徳間書店飯田史彦監修 あさりみちこ訳)」を読むとかなり理解しやすいが、「いま、この瞬間」を再考すると気づきの原点の教えは、一夜賢者の偈であると改めてブッダの偉大さを感ずる。
大伴神社考 信濃大門
東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。
沢内‥雫石・檜山のルーツ探し 古沢襄
沢内古沢家は私で十代、約三百年の歴史を刻んでいるが、最古の墓碑は延享五年(1748)。また初代と目される善兵衛について過去帳に「雫石邑生まれ」とある。
公用語として使われていた信州 信濃大門
市川長野県立歴史館長は、「信州」という呼び方について「公式には『信濃国』を用い、信州はその略称として用いられていたのである。」と解説されている。
信州と信濃国 信濃大門
平成16年5月20日付の信濃毎日新聞文化面に市川県立歴史館館長の信州という地名は鎌倉時代に僧侶が普及という小論が掲載されていた。
信州という言葉の今日文献上確認される最古のものは、平安後期の治承3年(1179年)仁科盛家が八坂村の覚音寺に千手観音像を造立した。
大山田神社考 信濃大門
下伊那郡下条村は、小さな村だが峯竜太で全国的に有名になった。その下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社がある。
渤海国人船代 信濃大門
東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社という神社がある。 下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面にある。
この神社には、木造の船代と呼ばれる人の木像がありこの人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。
海野郷戸主爪工部 信濃大門
海野郷は現在の東御市に古代にあった地名です。 今は東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。 長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に必ずこのことを知る機会がある。
龍国日本の”竜伝説” 古沢襄
麻布中学に合格した孫の竜太が、二泊三日で遊びにきて帰っていった。麻布中学校・高等学校は六年制の中高一貫教育校、ユニークな自由な校風に魅力がある。孫が大学をでて社会人になる頃は、私は八十五歳を越える。それまで生きられるか、それは神のみぞ知る。竜太の名付け親は芥川賞作家の辺見庸。
十三湊文化と蝦夷系譜の秋田氏 古沢襄
四年前の夏、「大津波で消えた十三湊文化」の雑文を書いたことがある。<<津軽・十三湖を訪れたいと思いながら果たせないでいる。十三湖・・・津軽人の太宰治は「「真珠貝を水に浮かべたような」と十三湖を表現している。中世、十三湖の開口部にある十三湊(とさみなと)が日本海の海運拠点として栄えていた。
白鳳時代からあった「秋田」の呼称 古沢襄
秋田美人、秋田犬などで知られる”秋田”の名なのだが、ウイキペデイアでは次のように紹介されている。
<<江戸時代の1604年 – 秋田市中心部の原形となる城下町久保田が建設される。 明治になると1869年(明治2年)6月17日 – 版籍奉還により、12代藩主佐竹義尭が久保田藩知藩事に就任する。1871年(明治4年)1月13日 – 久保田藩を秋田藩と改め、城下町である久保田城下を秋田町と改称。7月14日 – 廃藩置県により、秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県が誕生する。11月2日 – 上記6県をあわせて秋田県が誕生する。>>
北上市が黒沢尻といった昔 古沢襄(再掲)
北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。