歴史の勝利者の足跡は残され、脚色された   古沢襄

「家康に消された戦国大名・多賀谷氏の痕跡」と「東北亀田藩で名君を育てた幸村の娘」を読んだ読者から次の様な質問が来ている。

<興味深く読ませていただいています。先の「太閤秀吉が多賀谷に「多賀谷の人数は如何」と下問した時には「五軍合わせて地戦千騎」と答える規模になっている。」旨の情報の出典をご教示いただけませんか。

今回の「正妻の多賀谷重経の次女と離別」についてもお教え願えると幸いです。当方、東国の歴史(旧下総、常陸、下野)に興味を持って考察しています。高月亨>

地域の歴史に関心を持つ人が増えているのは喜ばしい。私も常陸国下妻城の戦国武将・多賀谷一族のことを調べはじめてから二〇年近い歳月が過ぎた。同好の友を得たいので、あえてブログ記事化した。

さて、ここで言いたいのは、歴史の勝利者の足跡は多くが残され、脚色さえされている。少し労を厭わなければ、出典となる古記録を探すのは困難でない。

しかし滅ぼされた者の足跡を求めるのは困難を極める。その好例が戦国の多賀谷大名だった。徳川家康から徹底して警戒され、下妻六万石をとり潰したうえ、下妻城は跡形がないほど破壊された。

最後の下妻城主となった多賀谷重経を逃亡して琵琶湖河畔で憤死している。

その結果、茨城県の下妻市や八千代町から多賀谷大名の歴史資料を発見するのはほぼ不可能といっていい。それで高月亨さんも情報の出典を聞いてきたのであろう。

家康によって多賀谷大名は滅ぼされたのだが、家康の力をもってしても、滅ぼすことが出来なかったのは常総の大守といわれた佐竹大名。そこで家康は常陸五四万五〇〇〇石を削って、東北の出羽二〇万五八〇〇石に飛ばしている。

佐竹と多賀谷は盟友だったことから、関東では発見できなかった多賀谷史料がわずかではあるが、東北の秋田県でみつかっているのは、このような事情が存在している。

秋田県能代市桧山に残された「北条佐竹御対陣先手多賀谷一手之備図」は多賀谷軍団の構成を知る有力な史料。天正十三年(1585)に多賀谷重経は、小田原・北条勢の北関東進出に対して佐竹与力となって下野国大和田に先陣をつとめて布陣した。

この時に重経は五軍合わせて千騎の武士と足軽鉄砲隊・長槍隊を動員している。その史料が能代市にあった。

「多賀谷家譜」によれば、この対陣の後に重経は太閤秀吉のところに名代として白井但馬を送って報告したのだが、秀吉は「多賀谷の人数如何」と下問した。秀吉にしてみれば、小田原・北条氏を下した後に、江戸の追いやる家康を北から抑える佐竹、多賀谷の軍事力に関心があったのだろう。

下問に対して白井但馬は胸を張って「地戦千騎」と答えた。地方大名としては、かなりの規模なので秀吉も多賀谷に目をかけることになった。それが次の秀吉の書状に現れている。

重経は天正十七年(1589)に秀吉に書を奉じて北条攻めに際しては、秀吉軍の先鋒となって功をあげたいと申しでていた。これに対する秀吉の返書が「秋田藩家蔵文書」で残っている。

秀吉の朱印がついた返書には「北条は最近、秀吉へ降ることを申し出ているので、軍兵を動員する必要はない」と丁寧に記されていた。歴史を経て、多賀谷に送られた秀吉の返書が、茨城県ではなくて秋田県から出ているのが面白い。

多賀谷と佐竹の同盟は、重経の時代に強化されている。重経の長女は佐竹第二十代当主の義宣の正妻。次女は義宣の弟・宣家を養子に迎えて嫁がせた。

多賀谷宣家は多賀谷氏の滅亡で、多賀谷姓を捨てて佐竹宣家に戻り、さらに名も宣隆と改めて家康に恭順の意を示している。秋田の桧山城に入ったが、家康は一国一城令を発して桧山城も破却された。

家康を怖れた宣家は、正妻の多賀谷重経の次女と離別している。

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