北アジアの異民族が万里の長城を越えて漢民族を蹴散らし、支那本土を支配したのは元王朝と清王朝の二例であろう。
元王朝について言えば、少数の蒙古族が圧倒的多数の漢民族を支配できたのは武力だけではない。巧みな民族分断の支配政治を行っている。
ジンギス汗は亡くなる前に東方の女真族が建国した「金国」と戦った。蒙古族にとって女真族は漢民族より武力に勝る相手である。
「金国」に属した北方の人を「漢人」とし、旧南宋の人を「南人」(蔑称)と称して差別したのは女真族対策であった。
さらに蒙古族以外の非漢族を「色目人」として準支配階級の扱いをして、「漢人」の上位に据えた。巧みな民族分断策といえよう。
外征では騎馬軍団を操り、ロシア平原を征服、ヨーロッパに攻め入って世界の半分以上を版図にしている。だが元朝は一世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉じた。覇道は一時的なもので終わる好例といえよう。
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蒙古族が一目置いた満州の女真族は、少数で漢民族の明王朝を倒し、清王朝を建国したが、蒙古族が漢民族を軽侮していたのに対して、漢民族の文化、とくに儒教の尊崇と漢民族の学術の保護とに力を致した。
清国は聖祖(康熙帝)、世宗(雍正帝)、高宗(乾隆帝)の三代百三十余年(1662~1795)の間に最盛期を迎えた。
満州から起こって支那に君臨したが、元代の如く支那人を軽視することなく寛容の態度をとって人心の収攬につとめた。
それは康熙帝・雍正帝・乾隆帝時代の文化的事業をみると顕著である。
科挙などの明の制度を存続させ、あくまで明の衣鉢を継ぐ正統な中華帝国であることを前面に出していたが、康熙帝は儒教の尊崇と学術の保護につとめた。
学者を招致し帝室の事業として、経典の注釈、史籍の算述など康熙字典を編集して明末から興隆した考証の学風を重んじている。
康熙帝が興した帝室の事業は高宗の乾隆時代に至る六十年間(1736~1795)に継続され、四庫全書の大蒐集と四庫全書総目提要の編述を見るに至った。
漢民族が女真族が起こした清王朝を比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明の降将などを雲南、広東、福建に封じている。
しかしこの中から呉三桂のような反乱軍が生まれ、結局は鎮圧せざるを得なかった。台湾を占領した鄭成功は呉三桂の乱に応じて兵をあげたため康熙帝によって鎮圧された。
康熙帝は鄭成功の降伏を受け入れ、台湾を併合して福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。
対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れた。
また、この頃新疆を根拠地としてオイラト系のジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼしてバルハシ湖にまでおよぶ東トルキスタンを支配下に置いた。
これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定している。しかし清室三代の末期には白蓮教会が民心に広がり、清室の衰運もこの時代に萌芽がみられる