明治海軍は薩摩の西郷従道によって育てられた。兄の西郷隆盛が征韓論を唱えて下野して、薩摩に戻ったときに西郷従道は明治政府に留まっている。明治十年の西南戦争では多くの薩摩士族が西郷隆盛を慕って決起したが、西郷従道は陸軍卿代行になって明治政府の留守を守った。
最初から海軍の西郷従道だったわけではない。
これより先に明治六年に英国のA・L・ダグラス海軍少佐が明治政府から招請を受けた。ダグラス海軍少佐は士官五人、下士官十二人、水兵十六人から成るダグラス・ミッションを率いて来日し、築地兵学寮で近代海軍の士官の養成に勤めている。ダグラス海軍少佐は日本に初めて近代サッカーを伝えた人として名を残したが、明治海軍を英国式海軍として人材を育てた功績が大きい。
この生徒から明治七年に山本権兵衛(薩摩士族)が兵学寮を卒業している。明治二十七年に海軍大将になった西郷従道は山本権兵衛を信頼し、明治海軍を近代海軍に脱皮させる全権を山本に委ねている。兄の西郷隆盛と同じ様に細かい事は山本に任せて殆ど口を出さない大人物だった。海相を退いた後、山本権兵衛海相の後ろ盾となったが、その人物の大きさから総理大臣に擬せられたこともあったが固辞している。
西郷従道・山本権兵衛のコンビがあったから、日清戦争や日露戦争で日本海軍が勝利したとも言える。山本権兵衛は海軍大臣・西郷従道の下で大臣官房主事(軍務局長)になって、海軍人事で大なたを振るった。明治二十一年の海軍将官は十六人、そのうち七人が薩摩出身でまさに”薩摩海軍”であったが、退役させた八人の将官のほとんどが薩摩出身であった。日露戦争以降、薩摩出身の海軍大将はほとんど出ていない。
代わってかつての賊軍だった岩手県から多くの将星が生まれて、薩摩に次ぐ南部海軍とまで言われた。米内光政、山屋他人、栃内曽次郎、及川古志郎、原敢二郎、斉藤実らの将星がそれである。米内光政、斉藤実は総理大臣にまでなった。山屋他人は皇太子妃・雅子妃殿下の曾祖父に当たるが、海軍大学校で講義した「円戦術」こそが、日本海海戦で秋山真之が編み出した「T字戦法」の原型を為すものである。
海軍大学校で山屋の後任者となった秋山は「小生、愚考するに山屋戦術は、わが海軍軍人の手になれる唯一のまとまりたる戦術書」と絶賛している。山屋が「円戦術」を編み出したのは明治三十三年、海軍中佐の時で、日露戦争の四年前のことである。大正八年に海軍大将、昭和十五年に死去したが、葬儀委員長には米内光政前首相がなった。
A・L・ダグラス海軍少佐、西郷従道、山本権兵衛、山屋他人、秋山真之と連なる日本海軍の歴史の中から日本海海戦の大勝利が生まれたといっても過言ではない。