歴史好きの仲間と酒を酌み交わした時の話。たまたま古代史に登場する「日高見国(ひたかみのくに)」の話となった。日高見国は、天皇家の正史である『日本書紀』に出てくる。
東北にルーツがある私は「日高見国は北上川の流域の肥沃な平野のことだ。岩手県の岩手郡に源を発する北上川は北上盆地真ん中を突っ切り、仙台平野を南下し、石巻市で太平洋に注いでいる。北上川は”日高見川”のなまったものさ」と薀蓄を傾けた。東北大学の高橋富雄教授の受け売り。
水戸っぽの友人は「常陸国風土記を読んだか」ときた。拾い読みしたことはあるが、全文を読んだことはない。東大史料編纂所に「常陸国風土記」があることは知っていたが、口語体でないから読める筈はない。
同じ歴史学徒である友人は高校の教師をしながら郷土史をコツコツと勉強してきた。途中からジャーナリトになった私は趣味で歴史本を読み漁る程度。趣味と本業では格が違う。だいたい私はドイツ近世史と東洋史のチヤンポンが卒業論文だったから、日本歴史はズブの素人。
「常陸国風土記に信太(しだ)郡の条がある。常陸(ひたち)国は、ひたかみのくにへの道(ひたかみみち)の意味だよ。この地はもとは日高見国とある」
たしか高橋教授は日高見国を「ひなほとりの国」の意味と解釈していた筈だと私が言う前に
「黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のため信太郡で没した。黒坂命のなきがらを乗せた車が、没した山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国になった」と言われては黙るしかない。
「それでは仙台平野と比定されている日高見国は嘘か」と酒の味が不味くなってきた。
「それは違う。日高見は”日の上”のことで、天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを指していた。神武東征によって大和国を平定した後は、日高見国が大和国よりも東の地方を指すようになったんだ」・・・。
神武東征まで持ち出されてはますます黙るしかない。友人の説によれば、常陸国が平定されて日高見国の呼称が、最後には北上川流域を指すようになったという。
日本書記には「武内好宿禰、東国より還りまゐきて奉言(まお)さく。東夷の中、日高見の国あり。其の国人男女並びに惟結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇悍(いさみたけ)、是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土沃壌(こ)えて廣し、撃ちて取るべし。」とある。
大和朝廷の視点で編纂された日本書記には、もともと違和感がある。征服者の歴史観で綴られているからである。むしろ古代の神々を歌い上げた古事記の方に魅力を感じている。
話題は変わった、全国的に「佐伯(さえき)氏」の姓が広く分布している。丹羽基二氏によれば佐伯姓は全国で五万。もとはいえば”土蜘蛛”といわれた荒ぶれた種族だったという。常陸国風土記では「大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。」とある。
このときの茨から、茨城の名となったという。
土蜘蛛は山の佐伯、野の佐伯といわれた精悍な戦闘集団。朝廷軍に降伏した後は、天皇の近衛軍団に編入されたと丹羽基二氏はいう。奈良朝時代には佐伯氏は押しも押されもしない名族となり、弘法大師の空海は佐伯系だという。大化の改新で蘇我入鹿を斬ったのは佐伯古麻呂。
こんな雑学話で友人と酒を酌み交わしていると、夜も更けるのを忘れる。ブレにブレまくる鳩山首相に腹を立てるのも、しばし忘れるから健康にも良い。