沢内古沢家は私で十代、約三百年の歴史を刻んでいるが、最古の墓碑は延享五年(1748)。また初代と目される善兵衛について過去帳に「雫石邑生まれ」とある。
十年がかりで調べあげた十代・三百年の歴史を「沢内農民の興亡」にまとめて発刊したのが1998年、あれから十二年の歳月が経った。この十二年間は雫石の古沢氏について調べ、さらに檜山(秋田県能代市)の古沢氏にまで遡っている。
物好きと思われようが、六十五歳で宮仕えを終えたので、時間はいくらでもある。六年前に血液のガンである骨髄腫の告知を受けて、余命三年といわれたが、調べもので忙しいので、死に神もあきれて寄りつかない。
十年ほど前のことになるが、神田と早稲田の古書店に「雫石の古沢氏に関する記録があれば、カネはいくらでも出す」と大風呂敷を広げて頼んであった。日ならずして早稲田の古書店から「雫石歳代日記」の出物があると知らせてきた。
まさに貴重本。雫石町の旧家に所伝されていた古記録の写しであった。その中に雫石町の古沢理右衛門義重の名があった。また滴石町の古沢屋理右衛門、門弟兵助の奥書もある。江戸時代には滴石町とも言ったらしい。
この古沢理右衛門義重なる人物は寛政八年(1796)あたりから文化七年(1810)にかけて雫石町で家塾を開いて「南部根元記」「九戸軍記」「雫石の万用歳代記」の写し本を残していた。なかなかの達筆であるから、名前からいっても武家の出なのであろう。
雫石町の教育委員会も古沢氏を称した人物の調査を行っているが、手がかりを掴めていない。雫石町には古沢を姓とする家は戸籍のうえでも残っていなかった。慶応二年(1866)に雫石地方の総御検地があったので、その時の雫石町の絵図が残っているが、古沢理右衛門義重は記されていない。教育委員会は「従前から雫石町に土着していた人ではなくて、他所からきて寛政・文化にかけて住んでいた人のように考えられる」と結論づけている。
ところが、ひょんな事から古沢理右衛門義重の墓を発見することができた。江戸時代の雫石邑に自力で新田を開発し、やがては酒造業に手を染めて、一代で巨富を築いた高嶋屋という豪商がいる。初代の市右衛門は慶長十一年(1606)に関東の宇都宮に生まれて、雫石に移住している。
市右衛門には娘が三人いたが、家を継ぐ嗣子がなかったので、三女すてに盛岡本町近江屋市兵衛の手代の弟を養子に迎えている。近江商人の血をうけた勘十郎といった。この勘十郎の代になって、高嶋屋は大きく家業を伸ばしている。
この高嶋屋の墓所は雫石町の曹洞宗・広養寺にある。南部藩(1818年に盛岡藩と改める)の御用をつとめた豪商だけあって藩重役にも劣らない壮大な構えをしている。その傍らの木の下に古沢利右衛門・文化八年十月六日と刻まれた墓があった。利右衛門は理右衛門のことであろう。
墓に刻まれた家紋は高嶋屋と同じ「相香」紋。このことから古沢理右衛門義重は高嶋屋の庇護を受けて家塾を営んでいたと推測される。家紋は同じだが、高嶋屋の一族でないことは、離れたところに墓碑が建てられことで分かる。門弟たちが墓を建てる時に高嶋屋の家紋を使う許しを得たのか、高嶋屋が自ら墓を建てた・・・恐らく後者だろうと思っている。
没年は明らかになったが、古沢を姓とする者が雫石町に現れた謎は解けない。広養寺の利右衛門の墓と並んで、もう一基、墓が寄り添うように建てられてあった。家紋は読みとれず、戒名も風雪に洗われて読めない。利右衛門は一人で雫石町に現れたのではなくて、父か母に連れられてきたと想像するしかない。
私は檜山城に入った関東の多賀谷家臣・古沢助蒸の一族が、檜山城の破却によって家禄を失い、土着して農民となった流れとみている。能代市には古沢を姓とする墓がなく、現在でも古沢姓はいない。能代市と雫石町を結ぶ線で古沢姓を探したが、徒労に終わった。三百年以上のルーツを探ることは、よほどの物好きでないと勤まらない。一種の道楽のようなものである。