「沢内年代記」を読み解く(六)  高橋繁

正徳元年 辛卯(カノトウ・・・1711年の記録)  
《注・宝永六年(1709年)1月10日、徳川五代将軍綱吉が没する。5月1日に、綱吉の兄綱重の子を養子にした家宣が六代将軍となる。「生類憐れみの令」は廃止された。「日本歴史年表」より》
①節気の「寒」に入って三十日間 少しの風も吹かなかった。  「少しの風も吹かない30日」の天候はどんなものか。晴れの日が30日続いたのだろうか。吹雪がないのだから、過ごし易かったと思われる。米や農作物の作柄に直接関係のない、冬季での無風であるのが残念であったに違いない。

②六月十六日 月蝕。十二月十六日 月蝕。(「草井沢本」には、六月の月蝕 十四日とある)
③この春 御代官 一方井九郎エ門様、八月に波岡吉右エ門様 お出でになる。

正徳二年 壬辰(ミズノエタツ・・・1712年の記録)  
①六月一日 蝕。(「蝕」だけの記録の場合は、「月蝕」の意味が多い。これまでは「日蝕」の場合は「日蝕」と記されていたが、「草井沢本」には「日蝕」と記されている。日・月どちらの蝕か不明)
②御代官 宮川吉太夫様
③湯田村の下前堰(下前の用水路)の普請が計画通り完成した。

《注・「日本歴史年表」によれば、この年、10月14日に、将軍家宣が51歳で没する。また、越後村上の農民強訴、加賀国に年貢減免一揆、越中国農民貢租の減免要求一揆等の農民抗争が激化している。 「沢内年代記」の正徳年間の記録は、単純な記録に止まっている。記録者の交代があったのだろうか。》

正徳三年 癸巳(ミズノトミ・・・1713年の記録)
①五月 閏 有り。
②この春 あらゆる草木の花 一切咲かなかった。
③四月二十五日(旧暦の四月は、現在の暦では五月末から六月初旬頃) 大雪が降った。

④五月二十八日(現在の暦では、七月四日頃) 霜が降ったる大冷害の年であったということである。米・作物の作柄、人々はどのようにこの年を過ごしたのか、記録されていないのが不思議でならない。《注・この年4月2日、家宣の四男である家継が、5歳で将軍職に就く。間部詮房、新井白石らが家宣に引き続き政治の補佐をした。「歴史年表」より》

正徳四年 甲午(キノエウマ・・・1714年の記録)
①十月十五日 月蝕。
②御代官 中野市左エ門様来る。《この年、柳沢吉保没する。諸国 不作になる。「歴史年表」より》

正徳五年 乙未(キノトヒツジ・・・1715年の記録)  
①四月十六日 月蝕。
②御代官 宮下多左エ門様 佐藤長助様 お出でになる。

正徳六年〔享保元年〕 丙申(ヒノエサル・・・1716年の記録)
①二月 閏 有り。 三月一日 日蝕。
②四月 沢内通り全部の田畑の測量検地の役人が来られた。検地役人は、大光寺彦十郎 和井内十之丞 関宇内 和田七十郎であった。検地された結果、総収穫高は

 ○猿橋村    八五六石     四升二合 (128t 406kg)
 ○太田村    七六五石  九斗三升    (114t 890kg)
 ○新町村    九八八石  七斗九升六合 (148t 319kg)
 ○湯田村    六八九石  三斗三升五合 (103t 400kg)
 ○桂子沢村   五一六石     五升七合

この検地は五月二十四日に終わり、以上のように改められた。合計 572t 424㎏となった。1俵の重さ60kgとして換算すると、9.650俵となった。年貢の取立ては、さらに厳しさを増すことになる。

③この年 改元があって「享保」となる。 (七代将軍家継は4月30日没する。8歳であつた。この後、紀伊藩の徳川吉宗が八代将軍となる。)
④この年、春より六月土用のうちまで雨が降り続き、凶作であった。

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