不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄

松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。

<<蒙古の兵船は互いにかけ金を掛けて組み合わせ、その上に板を敷いたので、海上は陸地同然となり、馬を走らせても危険でなくなった。鉄の玉に火を操作し、空を飛ばしてこれを投げかけたものだから、日本の軍兵はその勢いに押された。

蒙古は勝ちに乗じて、どっと攻めかかってくる。(日本軍に)討たれるけれども、意に介さず、倒れるけれども引きさがらない。日本軍は旗色が悪くなって、菊池・原田・松浦党のもので、傷をうけたり、討たれたりした者は数えきれないほどである。>>

ここで出てくる松浦党は「マツラトウ」、平安時代から戦国時代にかけて九州の肥前松浦地方で組織された武士団の連合のことで、水軍として勇名を馳せている。

話は飛ぶが、自民党の安倍晋太郎氏(安倍元首相の父)は毎日新聞の政治記者だった時期がある。岸派担当記者の三羽烏といわれて、共同通信社の清水二三夫、日経新聞社の大日向一郎(いずれも故人)と並んで、同じ岸派担当記者だった私から見れば雲の上のような存在であった。

だから岸取材のかたわら、三先輩の話を聞くことも多かった。

ある日のこと、私が岩手県の出だと知った安倍氏は冗談めかして「私の先祖は岩手県」と言い出した。”長州っぽ”とばかり思っていたので、安倍姓は北の王者だった安倍一族の末裔からくると聞かされて、驚いたものである。

「陸奥史略 東北古代史伝承」の著者である上野昭夫氏は、知将といわれた安倍宗任が捕縛されて、源頼義、義家の預かりの身となったが、頼義と義家の紹介状を得て、肥前・松浦の大領・渡辺源次久と対面したいきさつをを書いている。

源次久は宗任の才覚に惚れ込み「我、痛く老朽ち、明日も計れず。愚息年少なれば、我亡き後は我が職を継がれよ。嫡女・真百合(まゆり)は、最早二〇を越ゆるも、ただ武芸を好み、不束かなれども宗任様の婦とされたし」と懇請した。

間もなく源次久は「下松浦の地を婿への引き出物として贈る」旨の書状を添えて、娘の真百合を送り届けた。源次久の死後、承保三年(1076)に筑紫太宰府や源頼義の要請によって、朝廷は「松浦郡司守護使 総追捕使 安倍宗任」の称号を宗任に与えている。

この真百合は男勝りで武芸に通じた女丈夫だったという。宗任が上洛中に謀反があって居城が囲まれた。真百合は驚く様子がなく、みずから騎馬にまたがり、城門を開かせて城兵を叱咤し、敵陣に斬り込んで撃退した。真百合は急ぎ書状をしたためて、京にあった宗任に知らせ、三ヶ月の攻防戦の末に賊軍を平定している。

姓氏研究の権威である丹羽基二氏も松浦姓について「陸奥と鎮西とは関係が?」と述べている。

<<松浦姓は全国で約九万。多くは東北地方と九州に固まっている。鎮西・松浦氏には二流ある。上松浦(唐津)は嵯峨源氏流、下松浦(平戸)は安倍氏流だという。「平家物語」には「安倍宗任は筑紫に流されたりけるが、子孫繁昌して今ここにあり。松浦党とはこれなり」と記された。>>

この上松浦党は戦国時代に滅亡したが、下松浦党の平戸松浦氏は戦国大名として生き残り、関ヶ原の戦い以降も旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として栄えた。

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