他家の墓を見て回るのは他言を憚る趣味なのだが、この”墓荒らし”を始めて二十年近くになる。還暦を迎えた頃、家の紋章である「家紋」に興味を持った。家紋の研究書には大正十四年発刊の「日本紋章学」がある。沼田頼輔氏が明治書院から発刊した一千数百ページに及ぶ大著だが、戦後の家紋に関する本は「日本紋章学」に依拠するものが多い。
沼田氏は明治四十四年に山内侯爵家の家史の編纂に当たった。山内家は藤原秀郷を遠祖とする名家で土佐藩15代藩主・山内容堂(豊信)を出している。明治維新で容堂の孫・豊景が侯爵に叙せられ、一族から男爵、子爵を多く出している。
容堂は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。隠居後、容堂を名乗ったが、水戸藩の藤田東湖の薦めだったという。しかし維新後は長州藩と薩摩藩に主導権を握られ、土佐藩の出る幕は限られている。明治五年に脳溢血で倒れ、45歳の生涯を閉じた。
その山内侯爵が桐の家紋の由来を沼田氏に聞いたところ即答できなかったという。爾来、沼田氏は家紋の研究に没頭して「日本紋章学」の研究書を著している。この書には学習院長だった乃木希典大将が、全校生徒に対して家紋の提出を求め、その数が228あったというエピソードも出ている。
戦後では丹羽基二氏が家紋と姓氏の研究書を出しているが、日本の家紋は約二万にのぼるという。丹羽氏は七年の歳月をかけて全国の墓地をめぐり、墓石から家紋を集めている。家紋といっても公家紋、武家紋が主で、農民や商家の家紋は限られている。
江戸時代の農民や商家の墓石で家紋があるのは、武家が主家の没落で土着して、農民になった過去を示している。皇室の紋章は菊紋だが、菊は中国伝来の植物だから、奈良時代の天皇家にはほとんど見られない。平安時代になって平安貴族が菊紋を好んで使った。
菊のご紋章が皇室紋として定着したのは、後鳥羽上皇が菊紋を愛されて、この伝統が鎌倉時代になってから以降だという。一六複弁の菊紋が皇室紋として定着すると皇族や宮家は一六複弁の菊紋を変えて使用するようになった。
戦後は家族制度が崩壊したので、家紋はほとんど顧みられなくなった。しかし私の様に歴史に興味を持つ者にとっては、家紋や姓氏の由来は欠かすことが出来ない証拠になる。捏造されることが多い家系図よりも、風雪に洗われた墓石の家紋は遙かに実証的な証となる。
さて、常陸国から出た古沢姓なのだが、下妻庄の古沢の地名に由来するのは確かである。大宝沼に近い古沢黒島は奈良時代の初期からある古い地名である、その古沢姓の家紋は多岐にわたっている。わが家の蔦家紋だけでなく九曜紋、上がり藤紋、鳩之巣紋、梅蜂紋、相香紋などがある。それぞれが歴史を刻み、前姓があるが下妻庄古沢とかかわりを持って、古沢姓を名乗るようになった。