北アジア史に興味があった私は、「蒙古源流」に出てくるグルベルジン・カトウンという美妃の悲話に心を惹かれる。グルベルジン・カトウンは別名でサソリ妃、シルクロードの要衝の地で、交易で栄えた西夏の王妃であった。
蒙古のジンギス汗は東方の大国・金を攻略するために、まず西方の西夏に大軍をもって攻め込んだ。金との攻略戦が長期戦になるので、武器や食糧を輸送するラクダを押さえる必要があった。そこで狙ったのが西夏のラクダ。
1225年、西夏の都・興慶が陥落して、西夏王シドルグは捕らえられ、殺されてしまった。王妃のグルベルジン・カトウンは捕らえられ、ジンギス汗の夜伽を命じられた。「蒙古源流」によるとグルベルジン・カトウンは「光り輝いていて、そのため夜も灯火を必要としない」とまでいわれた絶世の美女だったという。女好きのジンギス汗が見逃す筈がない。
「ジンギス汗に召されたら、その時こそ、彼を刺して夫シドルグの仇を討とう」と心に決めていたグルベルジン・カトウンは、閨の天幕で、ジンギス汗を刺して闇にまぎれて逃げ、ハラムレン河に身を投げて死んでしまった。
西夏の人々はグルベルジン・カトウンの死を悼んで、ハラムレン河を「カトウン・ゴル」(妃の河)と名付けたという。この悲話は「アルタン・トプチ」にも書かれている。
刺されて重傷を負ったジンギス汗は、大量のラクダを手中にして「金」攻略戦に出陣したが、出兵の途中で死の床に就いた。1227年8月18日だったという。
ジンギス汗の死因は①落馬説②落雷説③流矢説④熱病説など様々である。ジンギス汗の訃報が広がるのを防ぐために、柩を運ぶモンゴル騎兵は、途中で出会った人々はすべて殺したとマルコ・ポーロは「東方見聞録」に書いている。
だから死因は今以て分からない。しかし西夏の人々に伝わるグルベルジン・カトウンに刺された傷がもとで死んだという説の方が物語性に富んでいる。
金はモンゴル高原の東境に南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)の東麓にあった勇猛な女真族の祖地。この大地で古代から言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族が活躍した。古くは粛慎(しゅくしん)、ユウ婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が活躍したと中国の史書は伝えている。
かつては高句麗(こうくり)や渤海(ぼっかい)などのように強大な帝国が現れている。海東の盛国と称された渤海が遼[契丹]によって滅亡させられた後に、女真族の完顔(ワンヤン)部が金を建国した。金は会寧(かいねい)を首都とし、女真文字を作ったり、長年の宿敵たる遼を滅ぼすことに成功している。
しかし華北を領有すると女真族が漢化され、次第に民族性が失われて、新興のモンゴルによって滅亡させられる運命にあった。強国になり平和で文化的な生活を享受していると、辺境の蛮族によって滅ぼされるのは、歴史が教える皮肉な教訓である。
モンゴルの元が滅びて明王朝が出来ると、満州にあって漢化されなれなかった女真族が再結集して、後金国が建国された。この後金はモンゴルの軍制を取り入れた軍事国家の色彩が濃い。明代の女真族は満州南部の建州女直、松花江沿いの海西女直、東北極遠の野人女直に大別されている。
これが明代末期に万里の長城の要衝・山海関を突破して華北にはいり、明を滅ぼして中国全土を手中におさめる満州族による征服王朝・清朝へと発展するのは、かなりの後のことになる。