一九四四、五年の冬将軍 古沢襄

ロシアの沿海州、シベリアの各都市には、二度行ってきたが、どの都市にも赤の広場があってレーニン像や戦車が飾れている。高いモニュメントがあって、大祖国戦争の戦死者の名を刻んだ大きな碑も立っている。その数を合わせると対日戦で、日本軍よりも多くの戦死者を出したことなる。

疑問を感じたのでガイドに聞いてみた。ガイドは対日戦の戦死者は少ないという。大部分は大祖国戦争の対独戦でレニングラードに送られたシベリア軍団の戦死者だと言った。1941年6月ナチス・ドイツ国防軍がソ連に侵攻、数十万のソ連軍部隊は壊滅し、キエフ、ハリコフなどが陥落した。

勢いにのったドイツ軍はレニングラードを包囲し、モスクワまであと数十キロのところまで迫っている。このドイツ軍の進撃を阻んだのは、例年より早い”冬将軍”の到来だといわれている。

1812年、ナポレオンはロシア遠征でモスクワに入ったが、雪原における寒気と飢餓に襲われ、反撃したロシア軍によって退却を余儀なくされた。冬将軍に助けられたこの戦争をロシアはナポレオンに勝利した祖国戦争と呼んでいる。

ドイツの侵攻を受けた独ソ戦争を、ソ連が大祖国戦争(Великая Отечественная Война)と呼んだのは、神風ならぬ冬将軍が来ると国民を鼓舞したといえる。日本も米軍の反攻を受けて、敗退を重ねたが、東条首相ら軍部は元寇の神風が吹くと国民を鼓舞した。

ロシアに行って初めて知ったのだが、独ソ戦におけるソ連軍の戦死者、戦病死者が1128万にのぼったことである。ドイツ軍の戦死者500万の倍以上の犠牲者を出している。その犠牲者のかなりの部分が、シベリアの軍団であった。

スターリンは壊滅したヨーロッパ・ロシアの軍団の代わりに沿海州、シベリアの軍団を根こそぎ動員して、シベリア鉄道でウラル山脈以西の戦場に送り込んでいる。ドイツ機甲師団の進撃を食い止めるために、建設中だった第二シベリア鉄道の線路を外して、貨車でレニングラードに送った。バリケードとして使うためである。敗戦後、その第二シベリア鉄道の復旧工事のために、降伏した関東軍の兵士たちが苛酷な使役について、第二シベリア鉄道の枕木の数に匹敵する犠牲者を出している。

満州には日本陸軍で精鋭といわれた関東軍50万がいた。その備えに当たっていたシベリアの軍団を根こそぎレニングラードやモスクワの反撃戦に転用するのは冒険といわねばならない。

戦後になって分かったのだが、リヒャルト・ゾルゲがもたらした「日本軍が参戦する可能性は無い」という極秘情報によって、スターリンがシベリア軍団を根こそぎ転用する賭けに出ていた。ゾルゲはソ連のスパイとして処刑されたが、ソ連側からすれば祖国の危機を救った愛国者・英雄ということになる。

1944年12月からソ連軍は冬季大反攻を開始した。ドイツ軍はモスクワ正面から後退、レニングラードのドイツ軍は、ヒトラーの死守命令に抗して降伏している。

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