年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(9) 吉田仁・古沢襄共編

☆3月,襄は埼玉大学を卒業、共同通信社に合格
☆4月4日,襄は共同通信社の仙台支社編集部員として上野駅から任地へ向かう。仙台で為田大五郎(河北新報社会部長)と再会
◇5月3日,古澤元没後11周年
☆10月,襄・恵子が入籍
*沢内村長に深沢晟雄、助役に佐々木吉男

■1958年(昭33)   真喜49歳・襄27歳
◎3月,真喜は電通の出版部に就職
*3月,高見順『昭和文学盛衰史』上巻が,雑誌連載分に加筆訂正のうえ文藝春秋新社から刊行される
◇5月3日,古澤元没後12周年
*11月,高見順『昭和文学盛衰史』下巻が,雑誌連載分に加筆訂正のうえ文藝春秋新社から刊行される

■1959年(昭34)   真喜50歳・襄28歳
☆4月,襄は共同通信社の東京本社政治部に異動。政治部長は小田島房志。仙台を引き揚げ,中野区江古田の社宅に移る
◇5月3日,古澤元没後13周年
◎6月?,真喜は書店で高見順の『昭和文学盛衰史』を手にする。古澤元のことが書かれている「右翼的文学論」の項を読み,襄・恵子の媒酌人を高見に依頼することを思う
◎6月,真喜は鎌倉に高見順を訪ねて媒酌人の件の承諾を得る
◎10月,高見順は岩波書店の文化講演旅行で上田市を訪れ,真喜の実家木村陶器店に立ち寄る
☆12月, 襄は総理官邸詰め岸首相番記者

■1960年(昭35)   真喜51歳・襄29歳
◎1月9日,真喜は満50歳に
☆1月15日,襄・恵子の長女京子が生まれる
*1月19日,日米新安保条約調印
◇5月3日,古澤元没後14周年
☆7月14日、総理官邸で岸首相は右翼の暴漢に刺される。首相番だった襄はすぐ隣にいて一報を政治部に速報,これが縁となり岸信介の知己をうる
*7月19日,池田内閣発足

■1963年(昭38)   真喜54歳・襄32歳
☆4月,3年間限りの社宅を出て襄・恵子は吉祥寺の恵子の実家に同居
◇5月3日,古澤元没後17周年
☆5月8日,襄・恵子の次女知子が生まれる
◎7月9日,真喜の日記“蒸し暑く,朝から気分が悪い。我慢して電通に出社する。五時近く,息がつまって吐き気をおぼえたが,辛棒辛棒と,ヤケクソでペンを動かす。愚にもつかない数字の羅列と闘うことが生きるためなら,いっそ生を返上した方がましだ。この頃,電通の仕事が無意味に思えてならない”
◎11月30日,真喜が創作に打ち込む意を決して電通を退社
◎12月はじめ,真喜は直木賞を受賞したばかりの和田芳恵に誘われて大田区長原の自宅を訪い,小説執筆の勉励を受ける

■1964年(昭39)   真喜55歳・襄33歳
◎2月,真喜はPR誌『東海テレビ』の編集部に勤務
◇5月3日,古澤元没後18周年
*10月10日,東京オリンピック開催
*10月25日,池田首相ガンのため退陣
◎11月3日,真喜の日記“こんなローカルテレビ会社のPR誌に,残り少ない貴重な時間をさいて,あくせくするのがひどく下らぬことに思える。先日,和田芳恵さんの所へ稿料を届けに行った折,「あなたも,いい加減でそんな仕事を打ち切り,自分で何か書くことで生活することを考えないと駄目ですよ」と忠告されてしまった。全くその通りで,耳が痛い。なんとかしなくては……”
*11月9日,佐藤内閣発足

■1965年(昭40)   真喜56歳・襄34歳
◎4月2日,真喜の日記“三一日に武田麟太郎氏の命日で例年のように千代さんの所へでかけたが,折り悪しく皆,旅行や仕事の都合で集ったのは那珂孝平氏と私だけだった。/武田さんが亡くなってもう一九年になる。毎年どんなに少なくても五,六人は集ったのに,今年はどうしたことか。こうしていつか忘れられていくのかもしれない。/どんなに感動深かったことも年月がそれを薄め,そして,それ等の人々が死んでしまえば何も彼も洗い流されて,何もなかったのと同じことになってしまうのだ。人の世のことは,何とはかないものだろう。(後略)”

◇5月3日,古澤元没後19周年
◎5月29日,真喜の日記“いよいよものを書いていこうと決心がついた。もう一歩も引けない。ぎりぎりの瀬戸際だから……。あちら側は死の暗い,だが平穏な淵が,もうそろそろ来てもいいよ,と待っている。行ってもいいなあと,誘われるような日もあった。だがこのままでは,何も手土産がない。あちら側で待つ人たちにせめて,頷いてもらえるような土産話の一つ二つもって行きたい気もする。自分という女は,最後まで見栄っぱりなのだろうか”
◎6月中旬,真喜の異父弟金一郎(48歳)が脳梗塞で倒れ半身不随となる
*文芸同人誌『星霜』が創刊される
☆8月16日,襄は入院先に高見順を見舞う
*8月17日,高見順が食道癌のため死去,享年58
*沢内村議会議長に北島暲男、以降連続当選

■1966年(昭41)   真喜57歳・襄35歳
☆3月,襄一家は吉祥寺から神奈川県川崎市の県営住宅に転居
◇5月3日,古澤元没後20周年
◇7月9日,大池唯雄が『河北新報』コラムに「亡友の写真に思う」と題して古澤元を偲ぶエッセイを発表
◇☆夏,吉見正信が襄に古澤元について取材を申し込む

■1967年(昭42)   真喜58歳・襄36歳
◇5月3日,古澤元没後21周年
◇吉見正信が岩手史学会編『岩手近代百年史』に「古澤元の生涯」を発表
*沢内村議員に親族の高橋賢、古澤政夫が初当選

■1968年(昭43)   真喜59歳・襄37歳
◇1月10日. 辻橋三郎(神戸女学院大教授)が『人民文庫の姿勢』の論文を発表
☆8月,襄一家は川崎の県営アパートを出て神奈川県相模原市相武台の分譲アパート3DKに転居
◎☆12月,真喜が世田谷区奥沢のアパートを出て襄一家と同居
■1971年(昭46)   真喜62歳・襄40歳
◎1月9日,真喜は満61歳に
◎9月末,真喜は和田芳恵に電話でまたもや小説執筆の督励を受ける

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