「沢内年代記」を読み解く(二十六)  高橋繁

天保二年 辛卯(カノトウ・・・1831年の記録) 
【巣郷本の記録】
   ☆七十七年来の寒波と豪雪 ☆飢饉の様相であったが上作 ☆盗人多くなる。
去年の寅年十一月二十三日 小寒入りした。その日から暖かく、二十七日地震があった。天候は良かった。二十八日より三十日まで大変に寒かった。

十二月一日夜地震があった。二日朝五つ(午前8時頃)大地震。暖かくなったが三日夜四つ(午後10時頃)稲妻が走り、雷が強く轟音が鳴り響いた。
二十四日からの正月準備から雪が降り続き、しかも大変に寒かった。正月二十八日まで雪が降り続き、六尺(約2メートル)も積もった。七十七年前の宝暦五年(1755)亥年の大飢饉以来の大雪だと評判になった。
二月五日彼岸入り、それより天候は良かった。十四日雨が降ったが、その後雪は降らなかった。三月八日は春の土用。四月二十二日雹が降った。

五月十日頃より田植えが始まり、終わってから、六月二十日ころから雨が降り続いた。七月十日頃より稲穂が出かかったけれど、毎日雨降りで飢饉の様相となった。米は横手では一升(1.5㎏)六十文(約1,500円)、沢内通りでは一升、七十文(1,750円)であった。粟は一升、八十文(約2,000円)であった。

七月二十日頃より天候良く、作柄は上作となった。秋の米価は当分の間落ち着いた。七月になって盗人が多くなって、方々で籾米、味噌、衣類、鍬、鎌、鍋等見当たり次第盗んでいく。他領から買い入れた米の値段は、一升(1.5㎏)六十三文(1,575円)であった。大豆は一升、三十五文(約875円)であった。

【下巾本の記録】
☆新町のお蔵から米四十駄盛岡へ ☆大野・湯田村の新田検地
作柄は田畑共に中作、平年なみの出来であった。年貢米の割合は昨年より一歩増しの仰せ付けであった。年貢米の他に新町のお蔵(米倉庫)より旧米四十駄(4.2t)を盛岡のお蔵に届けた。これはお蔵の米調査「俵直し」で仰せ付けられ納入したものである。この年出来た米は六七十駄、旧米と合わせて百四十駄余り(14.7t余り)が沢内の総収穫高に対する年貢割合となった。これは収穫高一石(150㎏)につき一升七合(2.55㎏)余りにあたり担いで上納した。代納米(米の代納)は一駄(105㎏)につき四貫七百文(約117,500円)として上納した。

御代官美濃部作左エ門の代わり中原清九郎来る。新田目作内。越中畑の関所番人は三年となったので赤沢庄作は代わり本堂善六が着任した。花巻の小野寺惣左エ門は大野村の野の内、湯田村分残らず、間木野の上野と米沢越えの道より上の方、二度瀬向かいの野とともに「野竿御通し」(新田の検地・測量)をされた。その時のお役人は勘定役方の大矢覚蔵、御物書き(書記・記録係り)岩谷良作。御竿取り(測量の竿を持って計る)二人がお出でになった。十月二日肝入(村長)理左エ門(湯田村)に宿泊して検地は終わった。

【白木野本の記録】 
   ☆与三右エ門、不当聴取の罪で取り調べられる
四月九日善右エ門の子供与三エ門は、御上様(殿様)にお会いして帰る途中の役人の話を立ち聞きした(隠れて聞いた)として取り押さえられた。御上様からの帰りというのは御同心の忠蔵様、荘平様と小繋沢の者たちで山道を越すところの木陰で待っていた。取り押さえていた小繋沢の喜助の子供の林蔵という者が腰縄を解き、白木野の組頭の徳助宅に行くところであった。御同心の言うには林蔵の親類、組合(隣組)の者と同心二人が桂子沢の肝入である幸左エ門宅に早く行くことになった。

御同心衆たちが立ち去った後に、佐左エ門、松之助が暮れから夜にかけて新町御役屋(代官所)に行く途中、与三右エ門に会い尋ねたところ、与三右エ門が言うには「私には八十三歳になる父親がいます。父親は目立たないように湯川温泉の与右エ門方に宿泊(湯治・この時代武士以外の者は湯治を隠れてしなければならなかったようである。)しており、そこに行って父親に会っての帰りです」という。しかし、取り押さえ調べられることになった。(どのような情報を不当に聴取しようとしたというのかは記録にない。)

同心の宿は又右エ門宅に申し付けられ、宿泊に伴う日用品代として一人二百文(約5,000円)ずつ仰せ付けられた。宿の賄い代も二百文ずつ、当人(与三右エ門)並びに親類、組合の者も同心二人の宿代二百文仰せ付けられた。内訳は二十日間、また後で一日分。親類組合の者一同は一人であったが、一日の賄い代は百二十五文(約3,125円)ずつ宿へお願いし諸費を払った。御同心衆の賄い代は一日百八十文(約4,500円)ずつお願いし、御手扶持(同心衆の自弁)となった。

又右エ門の宿泊は四月より十月二日までで、十月後半は善右エ門宅に移り、十月十七日まで居られた。この間、百八十六日間になった。その後、与三右エ門は盛岡へ行くことになり御同心古沢屋善蔵殿(杜父魚塾長・古沢襄氏の先祖と思われる)、加藤荘平殿に連行され盛岡長町の牢屋に入れられた。十月二十日より二十七日までの一週間、牢屋に置かれた。

御会所(裁判所)に出され、老人の親父に行き会い一寸言うことがあっての帰り取り押さえられたと白状した。早速許され、大槌へ追放になるところ、天保三年九月より盛岡在の大迫に所替えとなり、天保四年三月には帰参することとなった。悦んだことであった。

正月は大雪で、春の彼岸にはまた大雪となった。夏の間度々雨が降り続き、蕎麦は一切蒔くことができなかった。遅れて蒔こうとしても種が無くなっていた。六七月は北東風の「やませ」が吹き寒く、秋には虫食いもあり不作になった。

【草井沢本の記録】なし。                          

《「白木野本の記録」の与三右エ門は186日間、三ヶ月余りも取り調べられたことになる。役人たちのどのような情報を聴取したというのか、嫌疑の内容は確かではないが、不作と経済不安から藩では百姓一揆の相談等がないか警戒をしていたのではないかと推量できる。よく分からない記録である。「歴史年表」より・・・オーストラリア捕鯨船、東蝦夷地アッケシ(厚岸)に渡来し、松前藩と交戦する。周防国三田尻の皮騒動から長州藩全域の一揆に拡大(防長大一揆)。イタリアで青年イタリア党結成。アメリカ、ナットターナーで奴隷暴動。》

天保三年 壬辰(ミズノエタツ・・・1832年の記録)
【巣郷本の記録】
   ☆稲実らず ☆年貢割引願に肝入盛岡へ ☆稲穂、粟穂切り取り盗人出る
十一月閏があった。稲は実らず、年貢割合は去年より七歩引きと仰せ付けられたが、それでも納入することは出来なかった。川舟と湯田の肝入(村長)が盛岡に行き、この年貢割合では納入が出来ないので割引を願い出た。その結果三百駄(31.5t)割引きされた。その内の百駄は来年の巳年(天保四年)上納するようにと仰せ付けられた。七歩引きに二百駄(21t)の割合となれば一割三歩(13%)より下の年貢割合は無いことになる。
 他領から買い入れた米一升(1.5㎏)の値段は七十文(約1,750円)。大豆一升は五十文(約1,250円)位。小豆一升八十文(約2,000円)。粟一升八十文(約2,000円)位。秋田の横手では米一升(1.5㎏)が六十文(約1,500円)であった。

新しい貨幣の「二朱金」が初めて来る。代官所の検断(警察・裁判官を兼ねた役)清治は死亡し平右エ門に代わった。越中畑の関所番人本堂善五郎の母は越中畑で病死した。去年の卯年(天保二年)より、稲穂、粟穂を切り取り見当たり次第盗む者が出た。御代官 中原清九郎、花輪八兵衛。

【下巾本の記録】
☆稲青立つとなる ☆年貢拝借引き ☆糯米一升、二千円 ☆太陽が四方に見える
☆大野堰貫通 ☆親不孝娘監禁 ☆蚕種の取引変わる
四月より十月まで雨降り、風吹き続く。ついに稲は実らず青立ちとなった。十一月閏あり。年貢割合は去年より七歩引き仰せ付けられたが、この割合は受け入れることが出来ず

三百駄割引きを願に肝入二人が盛岡に行った。願の通り仰せ付けられたが百駄は明年巳年(天保四年)に返上する「拝借引き」を仰せ付けられた。

残りの二百駄は割引されるのであるが、平年の二割以上の収穫高の者は二升余り(3㎏)、三割以上の収穫高の者は三升余り(4.5㎏)、田の二割以上が不熟な稲の場合は御代官様が下検分されて割り引き米として上納した。米の代わりに銭で納める者は一升(1.5㎏)当たり六十五文(1,625円)ずつ上納した。

『古老の話によれば、当時の田1反歩・300坪=約992㎡あたりの米収量は平均すると4俵から5俵と思われるということであった。米1俵は4斗であるから16斗から20斗、240㎏から300㎏である。その二割の収穫というのは3.2斗から4斗、48㎏から60㎏しか収穫できなかったことになる。当時の一人当たりの米の消費量は一日3合として年間に10斗9升5合(164.25㎏)2俵以上となる。

当時1戸あたりの家族数は平均5人とするとどうしても米不足になる。日常は雑穀はもちろん大根や大根葉などを混ぜて主食にしたと伝えられている。武士の生活も容易ではなく、いくらかでも年貢米を納めさせる必要があった。1万石の高給武士でも、領民が生活できる分の5,500石は残し、実際に手に入る高は4,500石が一般的であったといわれる。』以上の割引き米について九月、御所(雫石町)の御給人が検分に来た。御代官中原清九郎、新田目作内代わり花輪八兵衛。越中畑関所番人 本堂善五郎。

麻だけが上々作であった。蕎麦は九月初め大霜が降り、種が無くなった。総体的に作柄は半作となった。糯米(もちごめ)一升は八十文位(約2,000円)。

二月二十四日昼八つ時(午後二時頃)不思議な現象があった。天空の中央より西の方にあたりお日様は丸い輪になっているはずなのに、一時ばかり四方に見えた。南北東と三つは朧月のように四方に見えた。西はお日様であるが東に見えたのは特別に光り、明るかった。不思議であった。

この年、小野寺惣左エ門の計画指導(世話)で大野堰が貫通した。清水ケ野の助左エ門の娘は親不孝のため、親類預かりとなった。四月より九月まで「囲井」(隔離された部屋か家に監禁されたと思われる)に入る。九月に村人一同が御上にお願いし許された。閏の十一月十六日より寒の節に入った。十一月二十四日雨が降った。

去る文化八年(1811)より二十三年間、盛岡中町の清助が御上様から委託されて蚕の種の取引販売をしていたが、この年から自由に蚕種を「調置き」(調査工夫して置くという意味と思われる)が始まった。

【白木野本の記録】中作、これまでの記録(前年の)が書き損じ前後してしまった。《「歴史年表」より・・・この年より全国的大飢饉続く。天保二朱金鋳造。この春、村田清風、長州藩に藩政改革案を上申。為永春水「春色梅児誉美」初編刊行。葛飾北斎「富嶽三十六景」。鼠小僧次郎吉処刑。琉球にイギリス船漂着。ロシア、ポーランドを併合。》

天保四年 癸巳(ミズノトミ・・・1833年の記録)
【巣郷本の記録】
 大飢饉。正月二十七日彼岸入り。二月三十日春の土用。三月十四日八十八夜。種蒔きし五月三日頃より田植えを始めた。五月二十日より天候はよかった。六月三日夏の土用に入ったが、それからは雨降り続きとなった。七月十五日より稲穂が少し出たが花が咲かなかった。二十四日まで雨は止まなかった。二十五日より二十八日まで天候はよかったが、二十九日からは風雨となり寒くなった。

秋の彼岸は八月七日であったが、稲穂は皆出ることなく青立ちとなった。草木の花は時と自然のなるままになり,咲く時期になっても咲かなかった。鼓草(タンポポ)の花は十月、陽暦では十一月まで咲いた。今年から七十九年前の宝暦五年(1755)の大飢饉と同じになった。八月には「俵探し」という米食料の家宅捜査があった。これでも終わらず土用の二十四日には新町始め、川舟郷は久保弥市右エ門、太田郷は高橋文治、新町郷は加藤清作、湯田郷は高橋直多、新田郷は高橋求馬様が御同心を召し連れ、小屋、空家、野山、便所まで残らず調べた。漬物はもちろん味噌、根花(ワラビの根の澱粉)、干しかて(混ぜ飯にするもの)、しだみ(ドングリ類)まで見当たり次第記帳し、来年は税を払うように仰せ付けられた。

新米は一升(1.5㎏)百文(約2,000円)。古米は一升百三十五文(約3,375円)。粟は米と同じ値段であった。大豆一升六十五文(約1,625円)。がさ麦(実のない皮ばかりの粗末な麦)一升は四十七文(約1,175円)。がさ粟、がさ稗も同じ値段。根花(わらび根の澱粉)は一升、百二十文(約3,000円)。蕎麦は一升、四十七文(約1,175円)。

味噌は百文(約2,500円)につき七百匁(1匁は3.75gに当たる。2.625㎏)を極窮者(困窮者)に九月まで商いするように仰せ付けられた。御代官 花輪八兵衛、仲原恵。

全ての穀物の下(世間一般の)相場(値段)の覚え。
・八月より米一升、百文(約2,500円)。次の年の正月より値上がりして、古米一升二百文(約5,000円)。新米一升百五十文(約3,750円)。

・次の年の五六月には古米一升、二百五十文(約6,250円)。新米一升二百文(約5,000円)。
・塩一升、百三十文(約3,250円)。
・濁酒(どぶろく)一杯、三十五文(約875円)。
・清酒一升、横手では八百文(約20,000円)。
・味噌百文で三百匁(1.125㎏)。
・稗糠一升、二十五文(約625円)。種籾一升百三十文(約3,250円)。
・根花一升、百八十文(約4,500円)。根米(根の付いた米・わら米)一升、十五文(約375円)
・大豆一升、百五十文(約3,750円)。小豆一升、百八十文(約4,500円)
・小糠一升、四十文(約1,000円)。がさ麦一升、百三十文(約3,250円)
・籾稗一升、八十文(約2,000円)。蕎麦一升、百四十文(約3,500円)。
・横手では古米一升、四百文(約10,000円)。新米一升、三百文(約7,500円)小糠一升、五十文(約1,250円)。濁酒一杯、七十文(約1,750円)

沢内より秋田へ穀物が多く山越えして行った。お上様より「米留め役人」(米等の穀物の越境取り締り役人)が来た。野々宿には船越武右エ門、長岡佐小右エ門が来た。六月より十二月まで居り、その村の者たちは迷惑した。

九月七日秋の土用入り、十五日より稲を少し刈り取ったけれども作柄検査役の「御毛見」は来られず、久保弥市右エ門様がお出でになった。雪が一尺、(約、30cm)ばかり降り積もった。不作で稲刈りが出来ないところにも、五歩、六歩(5、6%)の課税取立てがあった。この年に年貢を納めることができなかった者は来年の午年に取り立てるとのことであった。

十二月より次の年、午年の七月まで死んでしまった牛馬は少しも捨てずに食べた。犬、猫を殺して食べる者が数人もいた。巳年(天保四年)の十月から次の年の七月までに飢え死にした人は幾何万人になるのか数限り知ることは出来ない。

親を捨て、子供は川に打ち込み、山に捨て、自分ばかりどこかへ行ってしまった者は数知れずという状態である。昔、治承養和の大飢饉(1177-1181)と源平両家の戦争に傷を負い死んだ人数を一度に合わせてもとても比べ物にはならないであろう。恐ろしい状況になったものである。

【下巾本の記録】
世の中は大凶作となった。正月十八日大雨降る。これまで八十三日間、大変寒く雨が降る気配はなかった。先年よりずいぶん凶作があったけれども、南部領内全地域が凶作になったということは往古よりなかったという。諸作物が実らなかった文政十年(1827)、天明三年(1783)の凶作よりも更にひどい凶作となった。この沢内に限らず秋田、仙台も全てが凶作となり、米は高値となった。他国(秋田藩、仙台藩)との米の売買はなくなった。

この年春より秋まで気候不順。五月二日より二十三日まで雨が降らなかった。「やませ」風が吹き大日照りとなり場所によっては水不足、苗の生育悪く、田植えが出来なかった者が多かった。その後五月二十四日より雨が降り続いた。虻も蝿も、蝉も出なかった。大体において虫類は出てこなかった。夏中を通して一重物(薄い夏着)も扇子も使うことがなかった。

四月三日四日の二日にわたって朝大霜が降り、桑の葉はやけ落ち、枯れてしまった。蚕は散々であった。四月四日夜から五日所々で雷が鳴った。谷内中の長八の家に昼間、落雷があったが火事にはならなかった。

八月六日大雨風があり、霰が降った。蕎麦の種は無くなった。八月の十二日、十三日の朝大霜降る。諸作物は実らなかった。粟、大豆、小豆は例年の一割の出来であった。稲は種が無くなった所ばかり多かった。(種にする米を食べなければならなかった。)御代官 中原清九郎、花輪八兵衛。新町検断役の清治は病死し、平右エ門となった。桂子沢 肝入は平左エ門となる。

大凶作になったため代官所の御給人が作柄を検査した。川舟村・湯田村は高橋直右エ門。太田村は高橋求馬、新町・桂子沢は久保弥市右エ門、肝煎(村長)、老名(村役の顧問・補佐)が家を間違わないように同道し検査した。稲が少しも実らぬところにも課税を仰せ付けられた。御役料(役目の費用か)として米二升八合(4.2㎏)余り、その内一升二合余り(1.8㎏)は下役料として米、銭とも上納することになった。

一駄(1駄は7斗として・105㎏)一両(1両は4貫文・4千文として約10万円)の見積もり。一升につき九十一文八歩(約2,295円)ほどになる。収穫高一石(1石は10斗・150㎏)につき百二十文九歩余り(約3,023円)の課税割合があった。銭と米で年貢、役料を納めることができない者には雑穀で上納する。米も銭も御上様より取り立てがあったが、全納出来ずに年の暮れとなった。

秋田役人より沢内役人に立会いが来て、夏出の麦種百五十石を秋田に送る計画で、十月米五十石秋田六郷より下前に届いたので新町のお蔵に運んだ。また、来年の天保五年の午年(1834)の春には同じように五十石来ることになる。これは来春の耕作米として御上より下されることになる。

十月頃、上米一升の値段は百五十六文(約3,500円)から運賃手数料代を入れて百八十五文(約4,625円)まであった。小豆も同じ値段であった。大豆一升は百文(約2,500円)。根花(ワラビの澱粉)一升百三十文(約3,250円)から百四五十文(約3,750円)

大根一背負い(大根はモッコという籠で背負って運んだ。大きさにもよるが10本から15本ぐらいであったという)三百文(約7,500円)。大根の乾し葉は一連(一連は10葉から15葉ほど)二十五文(625円)から四十五文(1,125円)まであった。全体として食物は高値であった。したがって余裕のある百姓たちへお役人が見聞見回りし届けの上、雑穀、味噌を取り上げ、困窮者に配分した。しかしながら、飢え死にする者が多く、他所に行った者は数え切れない。

七月から十一月まで雪が降らなかった。葛の根を掘り、根を煎って叩き、根の脹らみを煎って叩き、粉にして食べた。その他種々の木の実、栃、楢の実、木の葉、ガザの葉(アカザの葉か)、マロコノ葉(おおばこの葉か)、アザミ等おおよその草木は皆食料にした。その種類は限りないものである。ようやく命助かり年越しが出来た。

【白木野本の記録】
この年、春より秋まで朧げで元気のない状態であった。七月よりは人々は田畑でも道でも歌を歌う者は一人もいなかった。終に餓死するような凶作となった。(原文では「大が志んト成る」と表記されている)南部領、津軽領、秋田領は餓死状態の凶作。仙台領は中作ということである。当所においては秋米一升百七十文(約4,250円)位に定められた。

秋、作柄検査の御毛見役 久保弥市右エ門様がお廻りになった。年貢割合は七歩(7%)より段々下になった。十一月御下役の高橋求馬様、御同心清蔵殿の二人の家探しがあった。

梁(ハリ)の上、板敷きの下、近くの神社までも尋ね、探された。ある物、米や籾、栃の実、ドングリの実まで書き留められた。食料のある所では三歩(3%)まで納め、払い米(お蔵にある米を払い下げた米)となった。『以下、穀物等の値段が記録されているが、他本と重複しているので省略する』

当年村々においては、人か死ぬことが多くなった。人家大死という者がいる。家によっては一人残らず死んでしまうという家が多くある。馬を喰い、猫を喰い、犬を喰い、鶏を喰い、食べるものは一切なくなってしまった。

【草井沢本の記録】
 天保四、五、六年 この三年は大飢饉である。買い米一升は百三十文(約3,250円)。《この年の記録を読んでいるうちに、記録者のため息と人々の呻き声が交互に聞こえてくるように感じてならなかった。「歴史年表」から・・・ロシア人との蜜貿易の疑いで蝦夷地場所請商人高田屋を処罰。8月から12月全国各地で米価騰貴による一揆・打ちこわし頻発。この年より天保の大飢饉。安藤広重「東海道五十三次」なる。イギリス工場法成立。アメリカ奴隷廃止協会成立。》

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