尼将軍の一言で七百年の武家・封建政治 古沢襄

正月の台風一過、わが家は五日から老夫婦と犬一匹の生活に戻った。十六畳のリビングが急に広くなった感じがする。庭に面した日当たりのいい所にソファーが置いてある。十五年以上も使っているので、買い代えた方がいいのだが、チロ、バロン一世、バロン二世が使うソファーなので、そのままにしてある。

お犬様のソファーの回りに人間様の椅子が四つ。私が使う長椅子が一つ。「てっぱん」の朝ドラを見終わる頃には長椅子で三十分くらい私は居眠りするのが日課となった。愛犬バロンはソファーで居眠り。時だけが静かに流れていく。

というと、なまけもの一家のように思われてしまうが、午前一時には目を覚まして二階の書斎で仕事をしている。律儀もののバロンは私に付き合って、足元でウロチョロ。眠くなると、お先に失礼とばかり寝室の私のベットのところで枕をアゴに乗せておやすみになる。五時頃に私が寝にいくと身体をずらして、枕を返してくれる。

ことしは日本の中世史にはまっている。鎌倉の北条政権は奈良・平安の宮廷政治を打破した武家政治だが、天皇や上皇を島流しする強権をふるった。承久三年(1221)の正月十日の朝から鎌倉に浜風が吹き起こって、晩には雷が鳴り、翌日には雪が降ったという。人々は天変地異の年と怖れた。

北条政権の尼将軍・北条政子は三月二十二日に「私は大神宮。天下のことを考えてみるに、世の中おおいに乱れて、軍兵を召し出すであろう。泰時こそ私を輝かして天下を泰平とするであろう」と夢のお告げをきく。

京都では後鳥羽上皇が武臣が天下を取って、宮中の政治が衰えていくので、鎌倉幕府を滅ぼす決意を固める。院内に北面の武士とは別に西面の侍を置くために諸国の武士を召集する有様と「北条九代記」に書いてある。今で言えば菅支持と小沢支持のつば競り合いということか。

承久の変は一日で起きたのではない。鎌倉と京都の力較べの中で徐々に武家と公家の争乱に向かった。しかし尼将軍・政子が「頼朝公のご恩を忘れて京方へ参られようとも、とどまって幕府方に奉公されようとも御自由です。ただこの場ではっきりと、どちらと言いきりなさい」と叱咤した一言がきいている。

東海道を押しのぼった鎌倉方の軍勢は十万余騎。「朝敵」の汚名をかぶる武家の蜂起だったが、尼将軍・政子の一言がなければ鎌倉方も思案投首が続いたであろう。いざという時には女性の方が強いのかもしれない。日本の武家・封建制度は江戸幕府が崩壊するまで七百年も続いた。世界でもこれほど長期の封建制度の政治は他に例がない。

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