大島浩(おおしま・ひろし 1886年4月19日 – 1975年6月6日)と言っても知る人は少ない。元陸軍中将、アドルフ・ヒトラーの信頼を得た駐ドイツ特命全権大使、戦後、極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けたが、昭和30年(1955)に仮釈放されて、昭和50年(1975)に89歳で亡くなっている。
大島氏は東京・牛込の愛日小学校を明治31年(1898)に卒業、東京府立四中(現在の都立戸山高校)に入学して、一年次に東京陸軍地方幼年学校に合格している。愛日小学校、戸山高校を通じて私の大先輩に当たる。愛日小学校で同級生だった友人の大橋圭介氏も、このことは知らないであろう。知りたくないことかもしれない。
「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」と言われた大島氏だが、アメリカのジャーナリスト ウィリアム・L・シャイラーから「ナチス以上の国家社会主義者」と酷評を受けている。戦前の日本が日独伊三国同盟を締結した立役者の一人。親英米派であった駐イギリス特命全権大使の吉田茂氏(元首相)とは対極をなす枢軸派であった。
大島氏とは会ったことがないが、ウイキペデイアによると、<<大島のドイツ贔屓は終生続き、その晩年までヒトラーを天才戦略家と評価しており、蟄居先であった茅ヶ崎の自宅応接室にも、自身とヒトラーとが向かい合った写真が飾られていた。また、国家の勢力拡大が最優先事項とされた当時の価値基準で測れば、ヒトラーはアレキサンダー大王やナポレオン・ボナパルトに次ぐ天才であったことを固く信じると、ヒトラー死後30年を経た後にも語っていたという。>>