盛岡の原敬記念館に行った時のことだ。廊下に各都道府県別の総理大臣の色刷りポスターが貼ってあった。原敬は米内光政と並んで、岩手県人が郷土の誇りとして敬愛してやまない。
岩手県からは五人の総理大臣をだしている。原敬、斉藤実、米内光政、東条英機、鈴木善幸・・・長州・山口県の七人についで二番目に多いというのがお国自慢なのだが、ポスターは四人になっていた。東条英機は?と探してみたら東京都出身になっている。原敬記念館が作ったポスターではないから、あれこれ言っても仕方ないのだが、東条家の人がみたら悲しむだろうと思った。
東京で生まれ東京で育った東条英機だから、最初から東京人と数えていたのならよい。だが敗戦前までは原敬、米内光政より東条英機が郷土の誇りとして、もて囃されている。岩手県人は誰しも「おらが大将」と信じて、首相兼陸相、外相、文相、商工相、軍需相と兼任のイスが増えるたびに声援を送っている。
これに業を煮やしたのか、山形県人で反東条の急先鋒だった石原莞爾が、盛岡に乗り込んできて「東条は盛岡出身でない」と大演説をぶったから大騒ぎとなった。昭和十七年夏のことである。
石原莞爾は「暴れん坊将軍」として多くの逸話を残しているが、関東軍参謀長だった東条英機中将の下で少将参謀として赴任したから堪らない。右翼の大川周明が訪ねてきた時に「東条上等兵の部屋ならそこだよ」とアゴでしゃくって教えたエピソードがある。
東条英機が陸相になるや「東条軍曹」と呼び捨てにして、即時退陣を迫っている。激怒した東条陸相は昭和十六年の陸軍大異動で石原莞爾(京都第十六師団長)をクビにしている。
予備役に編入された石原莞爾が盛岡にきた時には、民間人の資格で講演会に臨んでいる。開口一番「盛岡の諸君、一つ大きな誤認があるから、ご注意する。総理大臣東条英機なる男を、同郷の先達と誇って誇っておられる様だが、彼の先祖は江戸からの流れもので、風来坊の一芸人、南部藩の出ではない。その点、われわれは東北人として、まずお慶び申し上げる」とやったから、臨監の警察官が「弁士、中止!」。
東条家先祖の墓は盛岡市大慈寺町の曹洞宗・久昌寺にある。祖父は英俊といい南部藩士。父・英教も南部藩士から明治陸軍に入り、陸軍育ての親となったプロイセン(プロシア)参謀将校メッケル少佐の教え子一期生となっている。
明治陸軍が生んだ英才の名をほしいままにした東条英教は、陸軍中将で退役したが、戦術の第一人者といわれた。石原莞爾が東条英機を指して南部藩の出ではないと言ったのは誤っている。A級戦犯として処刑された東条英機だが、やはり岩手県人として数えるのが礼儀というものだろう。