北一輝は新潟県・佐渡が生んだ逸材。私は迂闊にも女房が北一族であること知らなかった。父親と母親が佐渡出身であることは、結婚前に知ったが、江戸時代に島流しになった罪人の末裔かもしれないと漠然と思った程度である。
私の父親の家系は岩手県沢内という奥羽山脈に抱かれた山間の僻地で三百年の歴史を刻んでいる。沢内は江戸時代には追放・流刑の地であった。盛岡藩の藩刑法典である文化律では、沢内追放は一番重い”遠追放の地”と定められている。
罪人の末裔同士が結婚するのも悪くないと、ちょっぴりロマンチックな想いに駆られたこともある。昔のことなどは、どうでもいい。若い男女が健康であって、シコシコ働いて子供をいっぱい残せば、それいい。もともと楽天的な私であった。
女房が北一族と知ったのは、ひょんな事からである。千葉師範をでて教育大学の関連学校の教師をしたことがある女房の姉が、伊豆の下田に温泉付きマンションを買って移り住んだ。そこに一泊したら床の間に不気味な人形が飾ってあった。
「姉さん、あの人形は不気味だね」と聞いたら「あら、北の伯父さんから貰ったのよ」と義姉はいう。よくよく聞いてみると義姉と女房の母・ムツは、北一輝の従妹であった。北一輝は二・二六事件に連座して昭和十二年八月十九日に銃殺刑で果てている。不気味な筈である。人形には北一輝の怨念が籠もっているとみた。
北一輝の母・リクは佐渡の素封家・本間家の出である。リクには妹がいて同じ佐渡の素封家・浦本家に嫁し三人の子をもうけた。長女ハツの娘・貞子は俳優丹波哲郎と結婚、次女ムツは女学校を出て上京し北一輝のところに身を寄せている。長男貫一は佐渡で弁護士となった。いずれも北一輝と血縁関係がある従妹弟。
リクの実家・本間家は佐渡の新穂(にいぼ)村にある。新穂・本間家は五か村を支配した本間支族、本間備前守を称している。今流にいえば分家筋ということになる。城持ちではない。新穂・本間家の末裔は神奈川県にいるという。
本間本家は右馬充能忠が守護職となり、河原田城を築いている。末裔は代々山城入道と称して、その一族が佐渡を支配した。分かっているだけで二十二家。嫡流の河原田・本間家はじめ七家が城持ち。城といっても中世の山城に館を築いたものであろう。この本間家も上杉景勝の兵舟によって滅ぼされた。
話は戻るが、正中の変(1324)に際して、後醍醐天皇の側近公家だった日野資朝権中納言が鎌倉幕府に捕らえられ佐渡に流罪となった。元弘の変(1331)で後醍醐天皇は隠岐に配流の身となるが、日野資朝は佐渡で斬首の刑に処せられた。
日野資朝には一子・阿新丸(くまわかまる)がいた。十三歳だった阿新丸は父にひとめ会おうと佐渡に渡ったが、対面が許されなかった。斬首役となった本間三郎を寝所に襲い、仇討ちをした物語は「太平記」巻二に詳しい。リクはこの物語を繰り返し北一輝に教えている。
処刑された北一輝は国賊と目された。昭和二十年に明治憲法下の最後の大赦令で青天白日の身となった。墓は菩提寺の勝広寺にあるが、世を憚って訪れる人も少ない。深い夏草に覆われているという。二・二六事件で処刑された青年将校の遺族たちも同じ境遇であろう。一代の逸材である思想家が復権するまでには、まだ星霜を重ねる月日が必要なのかもしれない。