中庸の精神を護った緒方竹虎  古澤襄

午前四時、白々と夜が明けている。冬と春が去り、夏を待つ季節となった。

グーグル検索で杜父魚ブログのユーザー数は3万4000台に乗っている。3万4104、五月に入って五〇〇〇人の読者が増えたことになる。硬派のブログだから、何が原因で読者が急増したのか、朝の空気に当たりながら考えているが、やはり、この国を取り巻く内外情勢が厳しくなったためだろうと、とりあえず総括しておく。

ブログというのは、新聞やテレビと違って双方向性があるので、座っていても読者の傾向が瞬時に分かる。西村眞悟氏の「士は己を知る者の為に死す」が昨日からダントツで読まれているのは、正直にいって意外であり、驚きである。

投書であるコメントも西村眞悟氏擁護ものが殺到している。全部を掲載するのは不可能だから、代表的な意見を二本だけ採用しておいた。

「大阪に韓国人の売春婦がうようよしている」という表現は稚拙で頂けないが、西村眞悟氏の憂国の至情はかねてから敬意を表してきたつもりでいる。憂国の至情が時々、脱線するのはご愛敬として許せる。

私は拉致問題が表面化して日本の右傾化が始まったと言ってきた。右傾化という言葉は好きではないが、まあ、まともな国になりつつあると言い換えよう。

敗戦後七〇年近い精神的な混迷から脱しようとしていると、いうことだ。日本人がこの国を愛する心を取り戻つつある。左傾化用語を使えば、日本のナショナリズムが覚醒し、それが偏狭なナショリズムに堕する危険性が生まれている、ということになる。

だが、右とか左という情緒的な用語の遊びはやめようではないか。日本人が持つ中庸の精神、バランス感覚に自信を持つべきである。ひとつ例をあげる。私は緒方竹虎という新聞人に敬意を表してきた。

緒方竹虎(おがた たけとら、1888年1月30日 – 1956年1月28日)・・・日本のジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。

緒方竹虎は戦前は”アカ”といわれて右翼から付け狙われた。戦後は東洋人的な風貌から”右翼”と評された。しかし緒方竹虎の思想・信条は戦前・戦後を通して、一貫していて微動だにしていない。

吉田茂に請われて吉田自由党の副総裁、吉田内閣の副総理になったが、吉田のことを「総理」と呼んだことは終生なかった。「あの人」としか呼ばなかった。緒方竹虎のキャリアからすれば、外交官あがりの吉田などは「あの人」に過ぎない。

二・二六事件で東京・有楽町にあった東京朝日新聞社が、中橋基明中尉率いる反乱軍に襲撃されている。主筆だった緒方竹虎は臆することなく反乱軍と対応して、中橋中尉らを引き上げさせた。

緒方竹虎が”アカ”といわれたのは、1941年のゾルゲ・スパイ事件で連座した朝日新聞記者・尾崎秀実の能力を買い、後輩として可愛がったことによる。

また九州の修猷館時代からの親友だった中野正剛が、東條英機首相と対立して東京憲兵隊に拘留され、釈放後に弾圧に抗議して自殺した。緒方竹虎は中野正剛の葬儀委員長を務めたが、東條首相の供花を拒否する硬骨漢ぶりをみせている。

「朝日人」という言葉があるとすれば、それは時代の動きに左右されない座標軸がしっかりした中庸の精神が豊かな人と心得る。戦前は”コムニュストかぶれ”と指弾され、戦後は”東洋的右翼”と左翼から攻撃された緒方竹虎こそが「朝日人」の名にふさわしい。

読売新聞の大記者で、東京タイムズの編集局長、日本テレビの専務取締役を歴任した松本幸輝久は緒方竹虎のことを「今もし緒方が世にあらば、と考える識者は少なくない。聡明で、理知的で、高い文化性と包容力、そして人間的貫禄の重さを十二分に感じされる偉丈夫。

この人ほど調和した政治家はない。清潔で、己を持しながら適当な妥協性もあって、総裁、宰相としてはまさに戦後の第一人者だった」と最大級の賛辞を呈していた。

緒方竹虎の東洋的な風貌は、剣道を極める中で培われている。

無刀流の山岡鉄舟の門下に幾岡太郎一という剣道の遣い手がいたが、緒方竹虎は幾岡太郎一の弟子で小野派一刀流の本目録と極意免状を贈られている。

二・二六事件で朝日を襲撃した叛乱軍の中橋基明中尉からピストルを突きつけられても動じなかったのは、剣道で培われた腹が出来ていたからだろう。

代々木の衛戌監獄に入った中橋中尉は出獄する田中軍吉大尉に「朝日に出向いて緒方竹虎という人に、甚だ無作法をしたと伝えてくれ」と伝言したエピソードも残っている。

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