「秋田家系図」では、安東堯恒から五十年余りは空白となっているが、安東太郎堯秀の頃、藤崎から移り、さらに孫の安東太郎愛秀の時に十三湊に移住して城を構えた記述がある。このあたりは諸説があって定まっていない・・・と述べた。
秋田元子爵家の所蔵だった「十三湊新城記」の表題は「安倍貞季の築いた十三湊新城は、秦の長城に比すべきものという」となっている。
諸説があるが、この辺りを詳しく見てみたい。
津軽では貞任の次男で藤崎に落ち延びた高星丸系とそれより先に十三湊に扶植した安倍則任系の二流があった。則任は貞任の弟、高星丸の叔父になる。
しかし十三湊の安倍則任系には嗣子がなく、平泉藤原二代・基衡の次男(秀衡の弟)の秀栄(ひでひさ)を娘の養子に迎えたあたりから十三湊と藤崎の関係は悪化している。
平泉藤原四代・泰衡が鎌倉の頼朝軍に攻められて、十三湊の藤原秀栄は兵を挙げて頼朝軍を邀撃せんとした。これに対して藤崎の安東氏は逸る秀栄を制して参戦させなかった。
挙兵に挫折した秀栄は平泉崩壊を知って心痛し、これに加えて嗣子の秀寿が急死。城主の座を孫の秀元に譲って、十三湊に檀臨寺を建立、法名を栄瑞(えいずい)と称して隠居。興国津波が襲う前のことである。
安倍則任(のりとう)は安倍頼時(貞任の父)に八男、白鳥八郎と称した。前九年の役の後、安倍氏系の記録はほとんど失われたが、野史として衣川資料や津軽系資料が残った。この津軽系資料に八男・安倍則任が厨川柵の落城前に則任が落ち延び十三湊に入ったとある。
貞任の次男・高星丸が落城に際して津軽・藤崎に落ち延び、安東氏を称したが、十三湊にあった叔父・安倍八郎則任の養育を受けて、藤崎館を築いたという。
「安倍汲水抄」には「寛治元年(1087)、28歳の安倍又十郎頼信(高星丸)は奥州津軽・安東浦址の藤崎に城柵を築き、安倍則任の四男・安倍長次郎氏季、寛治二年(1088)十三浦東丘に福島城を築く」とある。
寿永元年(1182)の阿吽寺・住職の了賢坊の書には「厨川殿の遺言で奥州津軽国に至りて十三湊方の安住者・厨川則任、安東浦藤崎安住は厨川高星丸也」とある。
十三湊安倍系図は安倍則任→氏季→養子・藤原秀栄→藤原秀元→藤原秀直。秀直の時に藤崎勢との荻野台合戦に敗れ、福島城を放棄して蝦夷地に逃亡した。
藤崎安東系図は高星丸→尭恒→高恒→貞季→尭季→貞勢→愛季→尭勢→貞季→盛季。荻野台合戦で勝利した藤崎方は秀直を蝦夷地に追放して十三湊・福島城に入り、藤崎城と合わせて、一主二領の領主となった。
ただ平泉藤原氏から養子入りした秀栄は秀元、秀直の三代にわたって十三湊を国際港として整備した功績は見逃せない。しかし安倍姓を捨てて、三代にわたって藤原姓に固執したため藤崎の安東氏と対立を深めている。一主二領の領主となった安東氏だが、やがて藤崎と十三湊の内紛が起こる。
興国元年(1340)八月の大津波の前史である。