名家といわれる家系をみていると、必ずといっていいほど内紛が起こっている。本来なら正流の総本家を支える分家の構造によって名家の結束が保たれるのだが、ある代になって総本家の嗣子がなくなる。娘がいれば養子をとって正流の地位を保つが、男子も女子もいなければ両養子をとらざるを得ない。
筆頭の分家にしてみれば、こちらこそ正流となる。家系を重んじる武家社会では、このような総本家の代替わりがしばしば起こっている。
蝦夷の末裔を名乗る安東・秋田家の興亡史はまさしくそれが当たる。天皇親政の明治維新で「朝敵安日王の末裔であることを誇る」秋田子爵家の存在は異色である。背景には神武天皇東征以前の旧家という家門の誇りがあった。
北の王者・安倍貞任は康平五年(1062)の厨川の柵で滅びた。安倍一族は四散したが貞任の弟・白鳥八郎則任(のりとう)は十三湊に落ち延びている。安倍総本家は則任によって保たれたといっていい。
厨川の柵が落城した時に、貞任の次男・高星丸は三歳。乳母に抱かれて則任を頼って藤崎に落ち延びている。ところが、則任の系譜で氏季に嗣子がなく、平泉藤原氏の二代目基衡の次男(秀衡の弟)の秀栄(ひでひさ)を養子に迎えた。
平泉・藤原氏の祖・清衡の母は貞任の妹だから、津軽の安東氏とは同族。しかし藤崎の安東氏は、高星丸系こそが総本家と称して秀栄の孫・秀直の時に荻野台合戦で十三湊藤原氏を滅ぼしてしまう。
安東・秋田家の家伝書である秋田家文書は、さらに十三湊安東氏と藤崎安東氏の内紛・本家争いを伝えている。東にあって津軽の安東氏の土地をたんたんとして狙っていた南部氏が、これを見逃す筈がない。
内紛によって力を失った安東氏は津軽の地を捨て、福島城主・安東盛季は安東水軍82隻を率いて、蝦夷地の渡島十二館湊に上陸した。ただ盛季一行は蝦夷地から、ふたたび再乗船して齶田(秋田)に向かっている。盛季。その嫡男の康季は檜山にあって家督を継いでいる。これを檜山・安東氏という。
一方、蝦夷地に渡らず、津軽から南下して秋田郡を支配し、湊に城を築いて勢力をもった湊・安東氏がいる。ともに安部貞任の子・高星丸の後裔と称して、両家は八郎潟北岸付近を境として、独自の領国制を展開していった。
檜山・安東氏と湊・安東氏は時には和し、時には戦った。代表的な戦は天正十七年(1589)二月の湊檜山合戦がある。見方を変えれば、秋田領における檜山・安東氏と湊・安東氏の本家争いである。安東氏の領国を二分して争われた湊・檜山合戦は檜山・安東氏の実季方の勝利に終わった。
津軽時代の安東氏は藤崎城に拠る宗家上国家と、十三湊を本拠とした下国家とに分別される。また安東・秋田氏系図も、「秋田家系図」「伊駒系図」「下国系図」「湊系図」「安東系図」「安藤系図」「藤崎系図」「安倍系図」などなど多岐にわたっている。
最後に函館市史の記述を紹介したい。「事実は小説よりも奇なり」を地でいっている。
■安東氏の一部が蝦夷地に行ったことについて、函館市立函館図書館の「新羅之記録」「下国安倍姓之系譜」が重要な資料であろう。
「新羅之記録」は江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録だから同時代資料とはいえないが重要資料であることに変わりはない。今日残されている北海道最古の歴史文献である。
ただ寛永14年(1637)の福山館の火災により焼失した記録を、記憶によってまとめたいきさつがあるから他の記録と一致しない点があるのも事実である。
函館市立函館図書館には二度行ったが、すでに「新羅之記録」は公にされている。むしろ函館市史に様々な視点で蝦夷地の安東氏について叙述しているのに注目したい。
■安東政季らの渡海
<安東盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟・安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ)の嫡男政季(まさすえ)は、いまだ弱年であったので南部氏に捕われて、糠部八戸に人質となっていた。
それがその後成人して名も安東太郎政季と改め、田名部を給せられていたが、享徳3年武田若狭守信広、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、大畑から船出して蝦夷島に渡った。
この政季らの蝦夷地入りについては、「機を見てその覊絆(きはん)を脱したか、もしくは竊(ひそか)に恢復を謀り、事露われて逃鼠(とうざん)したものと考えられる」(『新撰北海道史』)といい、あるいはまた、「田名部の豪族蠣崎蔵人が南部氏に攻められて松前にのがれたという事件と関係があるのではないか」(『新北海道史』)ともいわれ、その真相は明らかにしないが、しかし一方、時あたかも下国安東氏が断絶した翌年のことでもあり、見方によってはこの宗家継承のためもあったと考えることができる。
こうして政季は蝦夷地にあること2年、津軽西浜で故地回復を図っていた出羽檜山安東の正系が敗戦によって絶えたので、康正2(1456)年迎えられてその地に至り、籌策をめぐらして秋田郡を奪いとり、檜山の城主となった。そののち子孫が秋田において勢力を維持し、松前藩が独立するまで蝦夷島の支配を続けた(『新羅之記録』『能代市史稿』)。
政季が蝦夷地を去るにあたり、弟の下国八郎式部太輔家政を茂別館(上磯町茂辺地)に置き、蝦夷島支配の地位を預け、宇須岸館(本市弥生町)の河野加賀右衛門尉政通を補佐役とし、また、大館(松前町西館)には、同族下国山城守定季を置き、相原周防守政胤をしてこれを助けさせ、武田若狭守信広を上ノ国に置いて、花沢館の蠣崎修理太夫季繁とともにこの地を守らせた。このほか当時いまの渡島半島沿岸には、志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町涌元)、穏内(おんない)館(福島町吉岡)、覃部(およべ)館(松前町東山)、禰保田(ねぼた)館(松前町館浜)、原口館(松前町原口)、比石(ひいし)館(上ノ国町石崎)等が点在して、いずれも安東氏に隷(れい)属していた。>
政季は剛勇の士として知られたが、長享二年(1488)に長木大和の謀反によって自殺した。(八戸 湊文書)その子・安東忠季が檜山城を築いたと明応二年(1495)の「新羅之記録」に記述がある。
政季の系譜は、政季→忠季→尋季→愛季→実季と続き、愛季の時代に鹿角から南部氏を退けた。また愛季は檜山城下に能代町を作り、日本海交易をに向けた街造りをしている。(能代 八幡神社文書)
愛季の時代に檜山・安東氏は、秋田から能代まで支配権を確立している。また織田信長にも接近した。天正15年(1587)に愛季は没したが、檜山・安東氏が戦国大名・秋田氏として登場する地盤は愛季の時代に確立したといえる。