秋田北部に支配権を確立した安東・秋田家だったが、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、家康の命によって秋田実季が出羽窪田五万石から常陸国宍戸(茨城県西茨城郡友部)五万石に国替えとなった。
江戸の北の東北の外様大名の押さえとして水戸城に家康の五男・武田信吉が入ったが入部早々に病没。十男の長福丸が二歳で水戸城主になっている。家康としては大阪の豊臣家を滅ぼすためには、関東の守りを固める必要がある。
手始めに石田三成に加担した常陸国の太守・佐竹義宣を家康は伏見城(京都府)に呼びつけ、出羽国秋田地方に追放・国替えする命を下した。常陸国に戻ることを許さず、伏見から出羽国に直行する命であった。
さらに佐竹の盟友・多賀谷重経に対しては下妻六万石を取り上げお家断絶。下妻城を完全に破壊した。重経は逃亡し琵琶湖の湖畔で憤死している。佐竹義宣に対しても本来なら常陸五四万石を取り上げ、完全に破滅させたいところだが、それをすると常総に叛乱のおそれがある。
事実、慶長七年(1602)に佐竹遺臣による車丹波守の乱が起こった。三百騎で那珂川を渡り、徳川の城兵と交戦している。車丹波猛虎は捕らえられ、長子・主膳、馬場政直らは吉田台で磔刑(たっけい)になって刑場の露と消えた。
「慶長七年、義宣・封を出羽に徒さる。猛虎は仕を辞し、留まりて常陸にあり。密かに与党を集め、水戸城を復せんことを図り、刑死す」(車一揆記)。
それで家康は義宣を出羽に追放し、五四万石から二〇万石に減封する策に出ている。まず佐竹・多賀谷の分断にでたといえる。佐竹を追い出した後は、佐竹領を細分化して譜代の小大名を配置し、家康方だった秋田実季も北関東の守りにつかせた。
実季の子・俊季(としすえ)の時に、秋田氏は陸奥三春(福島県田村郡三春)に五万五〇〇〇石で国替えになった。正保二年(1645)のことである。慶安二年(1649)に盛季(もりすえ)が藩主を継いだが、五〇〇〇石を弟・季久に与え、徳川旗本の身分となった。季久は江戸に屋敷を持ち徳川に忠勤を励んで幕末を迎えた。明治維新では三春藩・秋田重季は華族に列し、子爵を授けられた。
一方で見たこともない出羽国秋田に赴いた佐竹義宣は、慶長七年(1602)七月に伏見を発っている。九月に秋田氏の旧城・土崎湊に入場している。
心中穏やかでない義宣だったが、土崎に向かう山越えをして、湯沢、大曲を経て横手盆地に来た時に、左手前の黄金の稲の実りを見て、思わず機嫌を直して手を叩いた。横手の地名は、それに由来するという。
東北に突然現れた”進駐軍”のような佐竹入部だから、百姓一揆のおそれがあった。南部領鹿角の藩境界を越えて南部の軍勢がしばしば小競り合いをかけてきた。
義宣は一冬を土崎湊城で過ごし、秋田の湿地帯窪地・久保田に岡を築き、久保田城を造っっている。常陸国も湿地帯が多い。湿地の泥を浚渫して濠とし、その泥で岡を築く工法はお手のものだったろう。城下町を造り、荒れ地の開墾、鉱山開発など秋田入りした佐竹氏の治世は、その後の秋田の産業発展に寄与している。
16歳で佐竹宗家を継ぎ、32歳で出羽・秋田に国替えとなった義宣だが、出羽では徳川を怖れ石橋を叩いて渡る慎重さをみせて、重臣たちにもそれを強要したが、領国の産業政策では果断な指導力を示した。
とくに梅津政景のような有能な執政を登用して家老職に据え、佐竹藩の財政再建に示した功績は大きい。家康時代には警戒の目でみられた佐竹氏だったが、二代将軍秀忠の時代になると佐竹が幕府に忠誠を誓って、数々の軍役に応えた義宣を”律儀人”と褒めている。