安倍晋三首相が来年2月のロシア・ソチ冬季五輪大会に合わせて訪露し、プーチン大統領と首脳会談を行う方向で最終調整に入ったという。
首相訪ロによって日ロ間の最大課題である北方領土問題が一気に解決する状況にはなっていないが、良好な日ロ関係を背景にして日ロ平和条約の締結に向け首脳間の話し合いをして欲しい。
私は日中関係の現状に一喜一憂するよりも、日ロ関係を前に進めることが結果的に日中関係の改善に繋がると唱えている。
七年前の夏、「シベリア・タイシェットの光と影」という旅行記を書いた。北辺の街・タイシェットはプーチン大統領の資源外交によって脚光を浴びていた。
クユンビン油田、ユルブチェン油田、ヴェルフチョン油田、タラカン油田が連なり、ロシア国営石油パイプライン会社「トランスネフチ社」が、タイシェットを起点にしてバイカル湖の北方152キロを通過しナホトカに至る4,188キロの壮大なパイプライン構想を持っていた。
プーチン大統領は膨大な資本が必要となるパイプライン構想で日本の経済協力を求め森元首相に打診しているが、小泉内閣の時代には進展をみなかった。小泉さんは北方領土で進展がないかぎりパイプラインの経済協力には手をつけないという選択をしたのであろう。
日本側の資金援助が進まない状況下で、ロシア・パイプラインを中国に分岐させる働きかけが中国から起こった。私がタイシェットを訪れた時には、まさに分岐案が水面下で進行していた。
タイシェットから沿海州のナホトカまでの「太平洋パイプライン」は当時でも総投資額140-150億ドルといわれた。中国は分岐パイプラインに資金援助を申し入れていた。その代わりロシア原油の価格を安くする交渉をして中ロ間でもめていた。
資金援助がどうなったか、原油価格がどうなったか知るよしもないが、結果的に分岐パイプラインが先行してしまっている。
ロシア原油の埋蔵量、生産量、輸出量は国家機密なので正確な統計数字は明らかにされていないが、おおまかに言って生産量5億トン、輸出量2億トンといったところであろう。生産量の大部分は西シベリア産、輸出の八割は欧州向け。
プーチンのアジアに対する資源外交は、西シベリア産に比して3%程度しかない東シベリア産原油を20%近くまで引き上げ、ナホトカから日本はじめアジア各国に輸出することにあるという。零下五〇度の寒冷地帯をパイプラインで繋ぐ工法、技術などで日本の協力が必要になるであろう。
■シベリア・タイシェットの光と影 古沢襄
シベリアの政治都市イルクーツクからシベリア鉄道で十一時間北上するとタイシェットという北辺の街がある。シベリア第二鉄道の要衝でもある。このタイシェットは今、二つの顔をみせている。光の顔と影の顔というべきだろうか。私は三年前にこの街を訪れている。
タイシェットはバイカル湖の北西、水力発電所があるブラーツクの西に位置して、旅行案内書にもでてこない寂れた街である。街にはホテルがない。私たちは身体障害者施施に泊まった。シベリア第二鉄道のことをロシアでは、バム(BAM)鉄道といっている。タイシェットから沿海州のソビエツカヤガバニ間の鉄道だが、バイカルとアムールを結ぶ意味でBAMの名称が付いた。
この街の北にはクユンビン油田、ユルブチェン油田、北東にはヴェルフチョン油田、タラカン油田があって、さらに試掘作業が大々的行われている。シベリアは未開発の天然資源の宝庫なのだが、スターリンのソ連時代には放置されてきた。プーチン大統領の資源外交によって、タイシェットが脚光を浴びてきた。
ロシアの国営石油パイプライン会社であるトランスネフチ社は、シベリア原油をアジア太平洋市場に供給する計画を立てたが、当初はアンガルスクを起点とするパイプライン構想で、日本の経済協力を求めている。アンガルスクはバイカル湖の西、イルクーツクに近い。
しかしトランスネフチ社は、アンガルスクからタイシェットに起点を変更して、バイカル湖の北方152キロを通過して、ナホトカに至る4,188キロの新ルートを選び、ルート沿線の地方州政府とも合意したといわれる。この案をベースにして日露間の協議が行われているが、小泉政権下では進展がみられていない。
これに割って入ったのが中国。大慶油田の開発によって原油輸出国だった中国は、経済開放政策によって、自国の石油消費量が増大して、一気に原油輸入国に転落している。今ではなりふり構わずにアフリカ石油の獲得にまで触手を伸ばしている。
ロシアに対して膨大な投資が必要なパイプラインの建設で資金援助をちらつかせ、ロシア側も日本に提示しているタイシェットからナホトカまでの太平洋パイプライン(総投資額140-150億ドル)の一部から、中国に分岐する案を先行させる可能性が強くなった。いずれにせよ北辺のタイシェットは脚光を浴びることになった。
タイシェットの影の部分は、この地で多くの日本人シベリア抑留者が強制労働に駆り出され、シベリア抑留の歴史でもっとも悲劇の場所となったことにある。
その全貌はイルクーツク大学教授で歴史学博士・セルゲイ・イリイッチ・クズネツオフによって明らかにされている。ラーゲリ(収容所)での悲劇は、スターリン時代には堅く伏せられていて、一般のロシア人には知らされていなかった。
ゴルバチョフの時代になって多くの古文書保管所の資料が公開され、それを読んだクズネツオフ教授は強い衝撃を受けた。それから十五年の歳月をかけてイルクーツク州やブリヤート共和国の日本人墓地を巡り、さらに内務省の公開資料を読み解く作業が始まっている。
クズネツオフ教授は「スターリン体制がロシア国民や他国民に対して犯した犯罪行為は、とても容認できるものではない。それらについて、真実を語り続けることは絶対に必要なことである」と断言する。ロシアにもシベリアの良心ともいうべきクズネツオフ教授がいることを忘れてはならない。
タイシェットの日本人墓地は三十四カ所、シベリア第二鉄道の沿線に集中している。それだけの数のラーゲリが密集していたことになる。これに対して用意された病院は第三三七〇ラーゲリ病院一つ。しかも資格を持った医師がおらず、医薬品もなかった。
タイシェットだけでなくブラーツクからも病人が運ばれてきたが、公開された病院報告書によると日本人の多くが、病院に運ばれて数分後には死亡している。この結果、この地域では十二・七%(シベリア全土では八%)という高い死亡率を記録した。
シベリア第二鉄道の枕木の数だけ抑留者の死亡数がでたというのは、誇張でない。苛酷な扱いに対してタイシェット・ラーゲリでは、抑留者が抗議のビラ貼りをしたが、工作・秘密警察によって、反ソビエト行動・ファシスト反動行為として鎮圧されている。
シベリア第二鉄道沿いに粗末な日本人墓地があるが「友よ安らかに眠れ」の木柱が立っている。シベリア全土で約六万人の日本人抑留者が祖国の土を踏むことなく眠っている。(杜父魚ブログ 2006.07.19 Wednesday name : kajikablog)