北東北三県で秋田の読者が岩手の読者を追い越したと、12月3日の杜父魚ブログでお知らせしたが、さらに三日間で秋田の読者が一日で七六〇人(前回七〇一人)と急増している。青森は七〇三人(前回六八五人)、岩手六七一人(前回六六〇人)と微増だが、秋田の読者増が著しい。
秋田美人、秋田犬などで知られる”秋田”の名なのだが、一三〇〇余年前の白鳳時代からあった歴史的な呼称が「秋田」である。
その淵源を辿ると奈良時代に雄物川下流の秋田平野に「秋田」の地名がつけられた。日本書紀に阿倍比羅夫が蝦夷討伐の兵を起こした記述に「飽田(あぎた)」の文字が出てくるが、さらに続日本書紀に出羽柵を雄物川に移した天平五年(733)に初めて「秋田」の文字が使われた。
続日本書紀・巻十一の天平五年の記録には<<出羽柵を秋田村の高清水岡に遷し置く。>>とある。
高清水岡は現在の秋田市寺内の高清水丘陵と比定されている。出羽柵は蝦夷が勢威を振るった”みちのく”の地に朝廷側が築いた防衛陣地のことで、和銅二年(709)以前に造営された山形の出羽柵をさらに北の秋田に移転している。
新しい出羽柵のことを秋田城と呼び、その長官を秋田城介と言った。天平宝字四年(760)の正倉院文書に阿支太(あきた)城の名前が初めて登場している。この文書で延暦23年(804)から四十数年前に阿支太城が造営されたという記述がある。
この時代の前は古墳時代と合わせて「大和時代」と言われた。今では古墳時代と飛鳥時代と区別されていて、推古朝の飛鳥文化、天武・持統朝の白鳳文化が華開いていた。
これらは朝廷側の資料による秋田の由来だが、野史を紐解くと北の王者・安倍一族に由来する秋田がでてくる。
安倍貞任は康平五年(1062)に厨川柵の戦いで朝廷軍に敗れて戦死しているが、その孫・安東太郎尭恒が青森県の藤崎町に逃れて安東氏の祖先となっている。(続群書類従・藤崎系図)
この一族の末裔が蝦夷地(北海道)に逃れ、やがて檜山安東氏として現在の能代市北部に入り、勢威を振るった。明応四年(1495)に安東政季が檜山を拠点にして河北地方1000町を支配していたという記録がある。安東愛季の時に秋田氏を名乗り、その子・実季が秋田家の祖となった。
この末裔が明治維新後、子爵に列せられ「秋田家文書」を遺した。「秋田家文書」は東北大学附属図書館に寄贈された。