北一輝から贈られた日本人形   古澤襄

北一輝から贈られた日本人形が八十三年の歳月を経てわが家の床の間に飾られている。この人形は昭和五年に生まれた姪の誕生を祝って北一輝が贈ってきたものである。その姪・・私にとっては義理の姉に当たるが、先月の二十五日にガンで亡くなった。

私の長女と次女が泊まりがけで姉の遺したものの整理をしてきたが、「お前たちの伯母さんが大切にしていた北一輝の人形だけは整理せずに持って帰るように」と命じてておいた。

歴史を刻むこの人形がガラクタもの扱いにされて、業者の手で捨てられることを恐れた。

北一輝の研究は松本健一さんらの労作があるが、母親リクの影響にふれたものが少ない。父親の慶太郎は地方ならどこにもいる酒造家、佐渡湊町屈指の分限者の生まれだが、初代両津町長を務めたものの思想家・北一輝に与えた影響はほとんど認められない。

母親のリクは新穂村の本間家の出である。有名な本間一族の血が流れている。リクの弟・本間一松は佐渡随一の理論家といわれ新潟県議となった。リクのいとこは佐渡政友会の闘将・高橋亀吉。

リクは北一輝が幼い頃から、寝物語で承久の乱で佐渡に流された順徳帝や日野資朝の悲劇を語って聞かせている。このことは二・二六事件に連座して憲兵隊調書の陳述に出てくる。父親についてはほとんど触れていないが、リクに対する敬慕の念が滲みでている。

この本間家は武蔵七党横山党海老名氏流。関東の出である。本間の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来している。鎌倉時代の初期に佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に渡った一族。

「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」と唄われた山形県の本間一族は、戦前には日本一の大地主で知られたが、滅ぼされた佐渡の本間家の分家と言われている。

上杉謙信以来、越後で勢威を振るった上杉家だが、謙信の子・景勝が石田三成側に立って、徳川家康と対立したために関ヶ原の戦いの後、越後百二十万石から会津三十万石に転封されている。その景勝は軍船を連ねて佐渡討伐を行っているが、抵抗した本間家の武将たちは、佐渡平定後、土着して農民となっている。中には、いち早く景勝側についた本間支族もいた。

この本間支族は佐渡を離れて、上杉家とともに越後、会津、米沢と移っていった。それが日本一の大地主なったのだから栄枯盛衰が面白い。一方で佐渡の本間家の血を引く系譜から革命家・北一輝が生まれている。歴史の彩なす不思議さといえる。

北一輝の研究で共通しているのは、その著述の解釈論で終わっている点といえる。北一輝の著作としては明治三十九年の「国体論及び純正社会主義」があるが、日本の近代思想史上、五指に数えられる著作といわれた。難解な書といわれたが、社会主義者の河上肇や福田徳三に賞賛され、久野収、吉本隆明、橋川文三、滝村隆一らも積極的な評価を下している。

その一方で「国家改造案原理大綱」は大正十二年に「日本改造法案大綱」として一部削除して改造社から出版された。伏字が多いが、伏字部分をガリ版刷りで復元したものが出回っている。昭和元年には二・二六事件に連座した西田税氏に日本改造法案大綱の版権を与えている。ここから北一輝が二・二六事件の精神的な主導者、つまりは右翼煽動者の否定的評価が与えられた。

一人の思想家が左翼と右翼から評価されたのは珍しい。北一輝はみずから”共和主義者”と称したが、その一方で国民統合の象徴である天皇制を護持する姿勢を示した。難解な思想ともいえるが、敗戦でアメリカから押しつけられた象徴天皇と国民主権の民主制度の原型が、北一輝の大正末期から昭和にかけて描いていたとみることも出来る。

私は北一輝の研究家ではないが、その生い立ちから北一輝をみることにした。ユニークな解釈論だが、そこで浮上したのが母親リクの影響であった。リクの影響は”ゴッド・マザー”とも言うべく、北一輝の難解さを解くひとつのカギといえよう。

リクには同じ本間家の出である妹がいた。妹は佐渡の素封家・浦本家(本間一族)に嫁して、長男は貫一(故人・両津市の弁護士)、長女は新穂(にいぼ)村の素封家・大蔵家に嫁して、その長男は大蔵敏彦(清水市の弁護士、島田えん罪事件を担当)、長女は貞子(俳優・丹波哲郎の亡妻)を産んでいた。しかし妹は次女ムツを産んで、産後の肥立ちが悪く若くして急死している。

そこでムツは新穂村の浦本家(両津市の浦本家と同族)に養女に出された。長々とリクの妹の係累について述べたが、リクと北一輝の系譜が途絶えているので、妹の系譜から北一輝の幼少の頃を知るしか手が無かった。ついでながら北一輝には弟の北昤吉(自由党代議士)がいるが、娘たちの消息は不明。

さて、これらの親族から知り得た母親・リクのことは次のようなものであった。

リクの実家・本間家は佐渡の新穂(にいぼ)村にある。新穂・本間家は五か村を支配した本間支族、本間備前守を称している。今流にいえば分家筋ということになる。

本間本家は右馬充能忠が守護職となり、河原田城を築いている。末裔は代々「山城入道」と称して、その一族が佐渡を支配した。分かっているだけで本間二十二家がある。

嫡流の河原田・本間家はじめ七家が城持ち。城といっても中世の山城に館を築いたものであろう。この本間家も上杉景勝の兵舟によって滅ぼされた。

正中の変(1324)に際して、後醍醐天皇の側近公家だった日野資朝権中納言が鎌倉幕府に捕らえられ佐渡に流罪となった。元弘の変(1331)で後醍醐天皇は隠岐に配流の身となるが、日野資朝は佐渡で斬首の刑に処せられている。

日野資朝には一子・阿新丸(くまわかまる)がいた。十三歳だった阿新丸は父にひとめ会おうと佐渡に渡ったが、対面が許されなかった。

リクはこの物語を、幼少の北一輝に繰り返し教えている。北一輝の象徴天皇制論はリクの影響である。

北一輝は上京して住居を東京・千駄ヶ谷から牛込納戸町に移している。その時機に従妹になるムツが佐渡女学校を卒業したので、リクはムツを呼び寄せて北一輝の家事一切を任せた。

これには理由があった。北一輝は明治四十四年に間淵ヤス(スズ)という女性を知って、大正五年に入籍している。ヤスの前身が水商売(娼婦)だったことから、母親・リクからは好まれていない。

革命家・北一輝はヤスの前身のことなどは問題にしていない。教養もなく、朝から首まで水白粉を塗って、家事を顧みないヤスであったが、その巫女的な異能に惹かれていたという。巫女的な異能と北一輝の組み合わせは、北一輝の思想の難解さを解くもうひとつのカギといえる。

間淵ヤスを嫌ったリクは姪のムツに白羽の矢を立てて、北家の家事を差配させた。当時は三人の女中さんがいたというから、女学校をでて日が浅い二十歳のムツにとっては、大変なお役目だったのだろうが、東京の生活は魅力的であった。北家は千客万来、秩父宮や岸信介氏も訪れている。

その後、ムツは結婚して一男三女を産んだのだが、長女・凱子の誕生を祝って高価な日本人形を贈っている。二・二六事件に連座し処刑された北一輝は、戦前は国賊とみなされ親族たちはあまり話したがらない。北一輝は昭和二十年に明治憲法下の最後の大赦令で青天白日の身となった。親族たちもようやく重い口を開いて在りし日の北一輝のことを方ってくれるようになった。

■『国体論及び純正社会主義』は、1906年(明治39年)5月9日に北輝次郎(後の北一輝)が刊行した自費出版書。23才の時に著した千ページにおよぶ処女作である。

大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判しており、明治維新を革命とし「維新革命の本義は実に民主主義にあり」と述べている。

天皇の国家、天皇の国民ではなく、国民の天皇であり、天皇が一国民として、一般の国民と共に国家のために行動する「公民国家」こそが、明治維新すなわち北が言う「維新革命」の本来の理想ではなかったのかと主張している。(ウイキ)

■『日本改造法案大綱』は、北一輝による日本の国家改造に関する著作である。

1911年(明治44年)、中国の辛亥革命に、宋教仁など中国人革命家と共に身を投じた北は、1920年(大正9年)12月31日に帰国し、3年後の1923年(大正12年)に刊行した著作である。

言論の自由、基本的人権尊重、華族制廃止(貴族院も廃止)、農地改革、普通選挙、男女平等・男女政治参画社会の実現、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体、皇室財産削減、等々の実現を求めており、軍国主義に突き進んだ日本を倒した連合国による日本の戦後改革を先取りする内容が含まれる。

この北の主張に感化された若手将校たちによる二・二六事件により、北は、事件への直接の関与はないが[1][2]、理論的指導者の内の一人とみなされ、1937年(昭和12年)に処刑されたため [4] [5] 、自らの「日本改造法案大綱」の改革内容の実現を、北が生前に見ることはなかったが、第二次大戦後、GHQによる日本の戦後改革で実現されたものには、北の主張も多く含まれている。(ウイキペデイア)

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