六〇年安保の頃であった。首相官邸の記者クラブで電話番をしていたら
「テレビ朝日のマツモトです」と電話が掛かってきた。
「マツモト?」テレビ朝日の友人にはマツモト君はいない。しばらく黙っていたら
「平林彪吾の息子ですよ」
平林彪吾・・・私の父・古澤元とは武田麟太郎が主宰した人民文庫で一緒だった。平林は「現実」、古澤は「日暦」から参加しているので、最初は交友はなかった様に思う。むしろ「現実」の本庄陸男、上野壮夫、湯浅克衛、「九州文学」の火野葦平
と親しかった筈である。
辻橋三郎が人民文庫の成立について「日暦」と「現実」の二つの流れがあったと指摘している。「日暦」は高見順、新田潤、渋川驍、円地文子、田宮虎彦といった左翼公式主義を批判して「社会的視野」「個人的視野」「芸術主義」を色濃く持っていた。
「現実」はナルプ崩壊後、本庄陸男の発意で創刊されたが、旧ナルプを中心にした同人が有力メンバーだったので、官憲から睨まれ5号で廃刊、第二次「現実」は新加入した上野壮夫、湯浅克衛、平林彪吾ら旧プロレタリア派によって復刊したが2号で廃刊となっている。
このいきさつがあるから人民文庫でも古澤元と平林彪吾の間には濃密な交友は認められない。むしろ戦旗の仲間だった上野壮夫と古澤元の間に家族ぐるみの交友があった。
■「日暦」系で一人廃刊に反対した古澤元
古澤元の日記をみると、平林彪吾という作家を意識したのは人民文庫の廃刊をめぐるいざこざが契機となった。
人民文庫の廃刊(1938年1月号が終刊号)は「日暦」系が廃刊を唱え、「現実」系の上野壮夫、平林彪吾たちは廃刊に反対した。武田麟太郎はむしろ継続の意向だったが、「日暦」の高見順、新田潤は箱根に逗留していた武田麟太郎に廃刊を迫っている。
この騒動のの中で「日暦」系の古澤元だけは廃刊に強く反対し、高見順、新田潤、田宮虎彦と袂を分かった。その結果、古澤元と上野壮夫、平林彪吾との交友が深まったといえる。
昭和11年の2・26事件の日には東京・上高田の古澤宅に上野壮夫・小坂多喜子夫妻が来ていて、「ラジオで聞く皇居を取り巻く不穏な空気を想像し、顔を見合わせていたことが、思い出される。やがてじっとしていられないらしい二人の男どもは、交通が途絶えて、しんとした雪の中を、都の中心をめざして出ていった」と小坂多喜子が回顧している。
平林彪吾が死去したのは、昭和十四年四月二十八日午後九時十五分。武田麟太郎から知らせがあって古澤元は東京・築地の海軍病院に駆けつけた。戻った時の暗い顔つきが印象に残ると母・真喜子は言っている。
■象のように細い目の松元真 こころ優しき男
日ならずして平林彪吾の遺児・松元真を古澤元はわが家に連れてきた。
「お前と同学年だよ。しばらく家にいるから遊んでおやり」と母は言った。兵隊将棋をやっている中に仲良しとなった。同学年といいながら、身体がひとまわり大きい松元真。だが目が象のように細い気弱な少年。その印象は生涯変わらない。”優しき男”であった。
前に戻るが辻橋三郎が指摘したように人民文庫に対する研究は極めて貧しい。小林多喜二はじめ多くの犠牲者を出したプロレタリア文学については、戦後、多くの研究が深められたが、人民文庫は文学の転向の歴史として否定的評価しか与えられていない。
ひとつには1936年3月に創刊された人民文庫は1938年1月の終刊号まで全巻26冊が発刊されたが、戦争中の爆撃、疎開などで消失して、残ったのは渋川驍、古沢元蔵書の2巻しかなかったため”幻の書”といわれた。高見順が初代理事長になった日本近代文学館から請われて1970年(昭和45年)に古沢元蔵書の合本2冊が寄託展示されて戦後初めて世に出たといっていい。
復刻本が出たのは、さらに遅れて平成年代の1996年6月。だが復刻本が出ても人民文庫に対する評価が改まったとは思えない。松元真も私も父親たちが文学に命を賭けた人民文庫のことを書きたいと思って半世紀が過ぎた。堀江朋子や武田文章、穎介兄弟も同じであったろう。
■人民文庫の二世たち
勝手ながら”人民文庫の二世たち”を名乗って浅草界隈を飲み歩き、父親の遺稿集を出したり、思いつくままに雑文をかいてきた。文章、穎介兄弟はいまは亡く、こんど松元真も失った。ファシズムが吹き荒れたあの時代のことを体感として書けるのは人民文庫の二世たちだと自負しているのだが・・・。この思いは堀江朋子も同じであろう。