真田三代と上田城 古沢襄

俗に”真田三代”という。真田幸隆、昌幸、幸村のことだが、昌幸が一番の策士だったようだ。幸隆は武田信玄の謀将として信玄の東信濃攻略に寄与したが、その居城は上田市の北東、旧街道に位置する小県郡真田町にあった。松尾城という。

平成十八年三月六日に上田市、丸子町、武石村と合併して新たに上田市となったが、私にとっては今でも真田町の名が懐かしい。戦時中から敗戦後までの四年間、旧制上田中学に在籍したが、春から初夏にかけて真田町を通って北の菅平高原にワラビ取りに行ったものだ。

上田中学は戦後の昭和二十三年に学制改革で新制高校になり上田松尾高校と言った時期がある。十年後の昭和三十三年に上田高校に改称している。私は上田中学四年修了で東京の都立第四中学(戸山高校)に転校したのだが、上田松尾高校の名の方が好きだった。松尾城を彷彿とさせるからである。

昌幸は幸隆の三男である。長兄信綱、次兄昌輝が武田勝頼の家臣として長篠城の合戦で討ち死したので家督を継いでいる。

幸隆の生涯は甲斐武田の興隆の時期に重なる。信玄は幸隆を重用して、甲斐金山からあがる金を与えて、信濃の武将の調略に当たらせた。幸隆が甲斐の武将でなかったことも、信玄の信濃平定に好都合であった。幸隆は信濃の地縁・血縁をフルに使って、武田の将来に賭けるよう説得工作を行った。思えば真田三代で幸隆が一番幸運な武将であった。

昌幸は違う。幸隆と信玄は同じ頃、この世を去っている。甲斐武田が滅亡の坂を転がり落ちる時期と重なった。甲斐金山の産出量も落ちている。信玄が没後、甲斐武田の中で諏訪家の血が流れる勝頼に背く動きも出ていた。

この時期、昌幸は勝頼から上州攻略を任せられ、上杉謙信の関東経略の根拠地となった沼田城攻めにかかっていた。天正八年に沼田城は落ちた。以後、昌幸は沼田領を支配することになった。しかし甲斐武田の凋落を身をもって感じていたと思われる。

天正十年三月、勝頼は織田信長に攻められ、天目山に向かう途中で織田方の滝川一益の兵に囲まれて、自刃して果てた。昌幸は、この頃、二通の書状を群馬郡八崎城の長尾憲景に送り、北条氏に帰順する意を伝えていた。その一方で四月には信長に馬を贈って臣従の意をあらわしている。戦国の世に生き残り、真田の家名を守る自立の道を模索している。

戦国の世の流転は激しい。上杉謙信はすでに亡く、織田信長も本能寺の変で果てた。関東では徳川家康が興隆の坂を上っている。武田遺臣で家康に忠誠を誓う者が八百九十五人(壬午起請文)にのぼり、昌幸も北条氏に背いて家康方に寝返っている。家康は昌幸に上州箕輪城を与える宛行状を与えたが、箕輪城は北条方の手にある。自分で切り取れということであろう。

昌幸は、この時期に上田城を築いた。松尾城や戸石城のような山城と違い、千曲川のほとりにある旧河川敷の沼を背景にした台地の城である。城下には原町、海野町、鎌原町など民家を作り、現在でも原町(上田市中央)、海野町は商業の中心地となっている。私の母の実家は旧原町にある。

昌幸が家康と事を構えたのは、真田の所領である上州沼田城を北条方に渡せと通告してきたことがきっかけとなった。昌幸はこれを拒絶し「沼田は家康様からいただいたものではなく、われらの手で取ったものです」と従わず、家康から豊臣秀吉に寝返った。戦国の一匹狼らしい根性といえる。

家康は昌幸の反逆を憎み、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉を将とする七千の大軍を送って上田城を攻めた。天正十三年夏のことである。昌幸は城下町のいたるところに柵を喰い違いに結んで、大軍の進撃を阻止し、城中から鉄砲の雨をふり注いでいる。

逃げる徳川勢は城下町の迷路に戸惑い、それを真田の伏兵が狙撃して死傷者が続出している。神川に追い詰められた徳川勢は増水した川にはまり溺死者があまた出ている。「上田軍記」では幸村もこの合戦に加わったとあるが、上杉方の人質として提供されていたから参加していない。

散々な目にあった徳川方だったが、大軍を擁していたから、再度、陣を立て直して上田城攻めをすることができた筈である。だが家康は深追いを避けて撤兵を命じている。家康と秀吉の対立が顕在化して、家康の重臣・石川数正が秀吉のもとに走る一大事が起こっていた。上田城攻めどころではなくなっていた。

だが天正十四年に秀吉と家康は和解する。この時にとった昌幸の決断は、長子の信之を家康に出仕させ、次子の幸村を秀吉に出仕させることであった。念をいれて信之の妻には家康の勇将だった本多忠勝の娘を貰いうけ、幸村には秀吉直臣の大谷吉継の娘を娶っている。真田の生き残りを賭けた”保険”といえる。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いで家康と石田三成は雌雄を決することになる。昌幸は信之と幸村を呼び、去就を相談している。「滋野世記」では信之は石田方につくのは家康に対する不義になると昌幸を諫めるが、昌幸は石田方につくと言って譲らない。そのうえで「このように父子が引き分かれるのも、家のためにはよいかもしれない」と言って、信之が家康方につくことを認めている。

昌幸謀反の報は家康に伝わる。信之は手兵を率いて秀忠の陣に駆けつけ、父の謀反と自分には異心なきことを訴えた。これを聞いた家康は喜び、書状で信之に安堵状を与えている。昌幸は家臣を引き連れて上田城に向かう途中、信之居城の沼田城を訪れるが、信之の留守を守っていた妻・本多忠勝の娘が、甲冑を帯び、長刀を構えて拒んだ。(真武内伝)

家康は東海道を関ヶ原に向けて進んだが、秀忠は中山道を経て小諸城に入った。本来なら中仙道を行くところだが、上田城を落とすことにこだわっている。天正十三年に徳川勢が上田城で苦杯をなめた汚名を注ぎたいという気持ちが勝ったのであろう。信之も上田城攻めに加わった。

しかし秀忠の判断は誤った。真田の兵は秀忠の大軍を縦横無尽に討ち破り、上田城攻めで空しく時を過ごしている。このために関ヶ原の戦いに秀忠軍が間に合わない失態を冒した。この戦には幸村も参陣して秀忠軍を散々に討ち破っている。昌幸は二度にわたって徳川軍に苦杯をなめさせたのだから、家康にとって”疫病神”のような存在であったろう。

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