NHKの大河ドラマ「風林火山」の視聴率があがっているのではないか。杜父魚ブログに書いた武田信玄ものの記事が軒並み高いアクセスを得ている。信州の上田で少年時代を過ごした私にとって真田一族、村上義清、反骨の佐久衆、諏訪大明神に帰依した諏訪一族の興亡は人並み以上に関心があった。
武田信玄にとって生涯で唯一の大敗を喫した上田原の合戦だったが、上田原は上田市の西に位置する。上田から千曲川を渡って約一里(4キロ)のところだが、私は敗戦をはさんで、この地に疎開して一年ほどいた。古戦場をめぐった想い出が残る。
上田は母の実家がある土地だが、ここでも三年過ごした。母系の親戚・縁者が住む土地で、数々の想い出が残っている。一時は信州大学の繊維学部に進学し、親族の娘と一緒になって、上田の土地に根をおろすことも考えた。真田の六文銭を刻んだ盃を今でも愛用している。
常勝武田軍は上田原の合戦で村上義清の軍勢によって、武田二十四将・武田四天王といわれた宿将板垣信方と甘利虎泰が討ち死にする猛反撃を受けた。村上方は山を背にして一歩も退かず、武田軍を迎えうった。
これには信玄こと武田晴信の過信が禍いしている。信濃攻略戦を始めた晴信は、南信の佐久衆から徹底抗戦に遭った。怒った晴信は「一兵も残すな、あまさず殺せ」と熱に浮かされた様な下知を繰り返している。志賀城攻めでは、討ち取った佐久衆三千の首を城の石垣に並べて「敵対すれば、みな殺しにする」と威嚇した。
城兵は決死の覚悟を決めて、女・子供に至るまで、石を投げて抵抗した。武田勢の総攻撃で、男はことごとく討ち死にして生き残った者はいない。上田原の合戦の前の出来事である。
村上義清は当代一の猛将の評判が高かったが、やはり佐久衆に対して行った苛酷な仕打ちが信濃全土に広まり、それが村上勢の必死の抵抗を誘発したことが否めない。村上勢の兵はいずれも前を向いて討ち死にしている。逃げながら背を向けて討たれた者はいないといわれている。
上田原で晴信が敗北した噂が広まると、信濃の武田占領地で一斉に叛乱が起こった。叛乱は組織的なものではない。しかし武田の軍勢が出動してなぎ倒しても、燃えさかる反抗の火の手は消えなかった。
小山田昌辰が守備した佐久の内山城は付近の土豪に囲まれ、城に火を放たれている。佐久地方では前山城や田の口城も叛乱の佐久衆の襲撃を受けている。信濃側の文書では叛乱の模様が詳しいが、信玄を神格化する甲斐側の文書では、晴信の威令が行き届き武田占領地では謀反の声は聞かないと片付けている。
公平にみれば晴信は上田原の敗北後、しばらくは捲土重来を期して雌伏を余儀なくされたとみるべきであろう。この敗北後、晴信の戦法は力攻めを改めて、信濃の武将の力を借りて信濃平定を行う戦略をとった。諏訪大明神に帰依する諏訪衆を先鋒に立てたり、上田の真田幸隆の軍略を重用したのは、その現れといえる。信濃の国人の力を借りなくては、信濃攻略が出来る筈がない。上田原の敗北は武田信玄という戦国武将を一回り大きくするきっかけとなったともいえる。