「前九年の役」は、平安中期、陸奥国(岩手県・青森県)の豪族安部氏がおこした反乱(1051-62)である。1056年に源頼義が再征にのりだし、「乱」を鎮圧し、1064年京都に凱旋するまでの9年間を称してこう呼ばれている。
さて、この乱にかかわる物語としては、高橋克彦氏の「炎立つ」がある。この物語は、1992年(平成4年)にNHKの「大河ドラマ」にもなった。
反乱の豪族安部氏を攻める源頼義軍は、「国府多賀城」(宮城県)を本拠地にして、安部氏の本拠地「奥六郡」(北上川沿いの地域)を攻め北上する。安部氏は「衣川柵」から「胆沢城」「黒沢尻柵」と後退し続け、「厨川柵」(盛岡市)で敗退し、終わる。
戦いの跡は、北上川の平野が中心と思われるが、実は奥羽山脈や北上山地と広範囲に及ぶと思われる。特にも、源勢は「出羽国」(山形・秋田)の豪族清原氏の援助を受けたことから、岩手・秋田の県境にある西和賀町には、この「乱」にまつわる伝説がいくつかある。
その1.
平地での戦いに不利になった「安部軍」は、黒沢尻(北上市)から西に向かい、奥羽山脈の山懐に陣地を構え攻勢に転じる作に出た。その時、「安部軍」と「源軍」が「和賀川」を挟んで対峙した跡地が「安部館」と「八幡館」の跡として伝えられている。現在は和賀川を塞き止めて造った「湯田ダム」(錦秋湖)を挟んで向き会っている。
その2
山岳地帯の戦いは、地勢を熟知している「安部軍」に有利であった。「安部軍」は、ある大きな沢に「源軍」を誘い込む、「源軍」は勢いをえて攻め続けるが、どうにもならず、防戦一方となる。ついには、頼みとする弓矢が尽き果て、散々痛みつけられ敗退する。その沢が「矢尽くしの沢」として伝えられている。「安部館跡」の近くの沢である。
その3.
安部頼義は亡くなり、貞任と宗任の兄弟は西和賀の地に逃げ延び、勢力を盛り返そうとした。ところが、それを察した源勢は、秋田の警備に当たっている「宇藤善治安高」という秋田出身者を先発隊として、沢内に超えさせた。この先発隊が超えた峠道を「宇藤道」「宇藤峠」と呼ぶようになったという。
源勢は、沢内の太田の後ろ山に「八幡館」を造り、「安部軍」を迎え打つ計画を立てた。しかし、「安部軍」はこれに応ずることなく盛岡の「厨川柵」目指して逃れる。
安部一族が逃がれる途中、昼飯を食べた場所を「真昼野」という。ここには、「真昼神社」が祀られている。
一族が大行列を形作り北へ進む。和賀川を渡って間もなく、貞任の妻が子供に乳を飲ませた所が「乳野」と言ったと伝えられている。
また、安部一族が源勢に追いつかれ、戦いがあったという場所が「合戦場」として伝えられている。
なお、沢内から山伏峠を越え、雫石町、滝沢村に入ると、「貞任橋」「宗任橋」の地名がある。「厨川柵」まで数キロの場所である。
その4
平安末期の1083ー87年にかけて奥羽に内乱があった。清原武則は「前九年の役」後、鎮守府将軍となったが、その死後一族に内紛が起こった。陸奥守源義家は藤原清衡を助けて清原家衡、武衡を「金沢柵」(秋田県横手市)で討ち、内紛を鎮めた。「後三年の役」である。藤原清衡はこの後、「平泉」を開く。
「後三年の役」にまつわる伝説も多い。
藤原清衡の跡を継いだ藤原秀衡の名前を冠した「秀衡街道」がある。この街道は「平泉」を中心に「北上市」「西和賀町」を通り、秋田に通ずる街道である。「秀衡古道」とも呼ばれている。西和賀の鉱山から産出される「金銀」を運んだであろう街道である。「秀衡堀」「吉治堀」などとよばれる金銀の「採掘」跡が残されている。
「金沢柵」で戦った鎌倉の武将「鎌倉権五郎景政」16歳が目に弓矢が刺さり、その矢を抜き取り、西和賀町の「耳取り川」で目を洗ったところ、下流に住む「カジカ」の片目がつぶれた。「耳取り川の片目のカジカ」として伝えられている。また、「鎌倉権五郎影政」一行が休み、水を汲みとって飲んだ泉を「一杯清水」と呼んだと伝えられている。(参考資料・「湯田町史」「沢内の民話」高橋善二著「日本史事典」旺文社)
高橋繁=前西和賀町長、作家・高橋克彦氏の縁戚
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