北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。
黒沢尻の歴史は古い。北の王者・安倍一族が東北に覇を唱えた時代に黒沢尻五郎正任の名が出てくる。安倍頼良の五男で、次男貞任・三男宗任の弟に当たるといわれた。これには異説がある。頼良には十二人の子がいたというが、頼良と妻辰子の間に生まれた実子は長男良宗・次男貞任・三男宗任。良宗は盲目であった、
四男照任以下は正室辰子(新羅之前)の子でははないとされている。安倍正任を名乗っていたが、黒沢尻五郎正任に改姓したのは、安倍系の豪族の娘を母とし、黒沢尻柵(北上市)を中心にして勢力を扶植したためであろう。
康平五年(1062)、源頼義の征討軍によって安倍一族の南端の防衛線だった小松柵(一関市谷起)が落城した。秋田の清原武則も頼義に呼応して安倍の領内に攻め込んできている。全軍を指揮した貞任は、敵を懐に誘い込む戦術をとり、厨川柵(盛岡市)で雌雄を決する防衛策に出た。
黒沢尻五郎正任も僅かな手勢を黒沢尻柵に残して厨川柵に入った。康平五年九月のことだという。手薄となった黒沢尻柵には清原武則の秋田勢が殺到して落城している。
黒沢尻柵の落城に際して、正室の阿波見と長男孝任は東の北上山脈を越えて三陸海岸に落ち延びている。(豊間根家譜)妻子を連れて厨川柵に行くいとまが黒沢尻五郎にはなかった。しかし、それが黒沢尻五郎の血脈を三陸沿岸に残した。
豊間根家譜に詳しい記載がある。
正室の阿波見と長男孝任は下女二人、従者ともども十七人で北東閉伊地陸中の海辺に落ち、この地の味兵邑に土着したという。名は安倍から阿部、石至下、石峠、豊間根と変えて、朝廷軍の追及を逃れた。居所も大槌、糠森と変え、山田線の豊間根駅は山間部に近い。豊間根村は町村合併で山田町豊間根となった。
また黒沢尻五郎正任は厨川柵の落城後、秋田に逃れたが、数ヶ月後に捕まり伊予国に流されて、その地で没した。
黒沢尻に戻る。昭和19年7月の日記がある。古沢元が点呼召集のために郷里の岩手県を訪れている。
湯本温泉着夕方なり。高与に夕飯をとり、吉野にて泊まる。(注記=高与と吉野は湯本温泉の旅館。吉野の京子夫人、高与の国子夫人は、いずれも古沢元の従妹)
翌朝、新町に至り、直ちに墓参し、正午、村役場に赴き、28日黒沢尻に点呼をいくる事にせり。夕刻、五時の汽車で黒沢尻に到る。平野伯父のところに泊まって、28日の点呼をうく。この汽車は横黒線の蒸気機関車なのだろう。
昭和30年、黒沢尻は北上市となった。横手と黒沢尻を結んだ横黒線も北上線に名を変えた。しかし、車窓から見る風景は変わらない。
NHKのニュース解説、国連外交官として活躍した平沢和重さん(故人)の夫人・朝子さんから二通の手紙が来ている。平沢さんの顕彰碑は西和賀町の玉泉寺に建立されている。「胸は祖国におき、眼は世界に注ぐ」という碑文を見るために朝子さんは北上駅から北上線に乗った。
「突然のお便りをお赦るし下さいませ」という書き出しで、長文の手紙を頂いくことになったが、「旅の途中、北上駅からほっと湯田に向かいます列車の窓からは、緩やかに蛇行する和賀川の美しい流れが続きますし、沢内の豊かに濃い緑も昔のままの姿を見せて呉れました」とあった。
平沢一家は太平洋戦争の末期に湯田村に疎開、沢内村と隣接する湯本に一時住んでいる。幼い娘さんを背負って、自転車で朝子夫人は左草の親戚の農家に買い出しをする毎日だった。
この左草の親戚から江戸時代に古沢家が嫁を迎えた。平沢家と古沢家は遠戚に当たる。玉泉寺の庭園には、平沢和重顕彰碑と古沢元・真喜文学碑が仲良く並んで建立されている。