白鳳時代からあった「秋田」の呼称 古沢襄

秋田美人、秋田犬などで知られる”秋田”の名なのだが、ウイキペデイアでは次のように紹介されている。

<<江戸時代の1604年 – 秋田市中心部の原形となる城下町久保田が建設される。 明治になると1869年(明治2年)6月17日 – 版籍奉還により、12代藩主佐竹義尭が久保田藩知藩事に就任する。1871年(明治4年)1月13日 – 久保田藩を秋田藩と改め、城下町である久保田城下を秋田町と改称。7月14日 – 廃藩置県により、秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県が誕生する。11月2日 – 上記6県をあわせて秋田県が誕生する。>>

ところが秋田の名は非常に古い歴史を持っている、奈良時代に雄物川下流の秋田平野に「秋田」の地名がつけられた。日本書紀に阿倍比羅夫が蝦夷討伐の兵を起こした記述に「飽田(あぎた)」の文字が出てくるが、さらに続日本書紀に出羽柵を雄物川に移した天平五年(733)に初めて「秋田」の文字が使われた。

続日本書紀・巻十一の天平五年の記録(現代語訳)。
<<出羽柵を秋田村の高清水岡に遷し置く。>>ここに出ている高清水岡は現在の秋田市寺内の高清水丘陵のことである。和銅二年(1709)以前に造営された出羽柵を秋田に移転したという記録である。出羽柵は蝦夷が勢威を振るったこの地に朝廷側が築いた防衛陣地。

新しい出羽柵のことを秋田城と呼び、その長官を秋田城介と言った。天平宝字四年(760)の正倉院文書に阿支太(あきた)城の名前が初めて登場している。この文書で延暦23年(804)から四十数年前に阿支太城が造営されたという記述がある。

この時代の前は古墳時代と合わせて「大和時代」と言われた。今では古墳時代と飛鳥時代と区別されていて、推古朝の飛鳥文化、天武・持統朝の白鳳文化が華開いていた。蝦夷が勢威を持っていた”みちのく”には、関係のない白鳳時代なのだが、その頃に「秋田」の名が使われている。一三六七年前の呼称である。

横道にそれるが、秋田の地名が白鳳時代からあるとすれば、秋田さんの姓もたくさんある筈である。事実、秋田姓は全国で五万人。発生が東北なので、九州には少ないが、北海道の札幌市には1500人もいる。北海道と秋田の縁もかなり古い。

秋田という地名を調べると東北の歴史とのかかわりが古くて広がりがあることが分かった。

ここまでは朝廷側の資料による秋田の由来だが、北の王者・安倍一族に由来する秋田姓もある。安倍貞任は康平五年(1062)に厨川柵の戦いで朝廷軍に敗れて戦死しているが、その孫・安東太郎尭恒が青森県の藤崎町に逃れて安東氏の祖先となっている。(続群書類従・藤崎系図)

厨川柵の戦いで破れた安倍一族の末裔が蝦夷地(北海道)に逃れ、やがて檜山安東氏として現在の能代市北部に入り、勢威を振るった。明応四年(1495)に安東政季が檜山を拠点にして河北地方1000町を支配していたという記録がある。安東愛季の時に秋田氏を名乗り、その子・実季が秋田家の祖となった。

檜山安東氏の興亡史は波乱に満ちているので面白い。資料もかなり持っているので、いずれ書くつもりでいる。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です