真田幸村の娘たち 古沢襄

母系の血脈ということ考えている。天皇家のことではない。日本社会は父系が中心となってきたから母系を調べるのは、もともと障壁が高く困難をきわめる。名家の家系図をみても母系は総じて「女」としか表記されていない。その”女”が、どのような出身で、どのような影響力を次の世代に残していたのか、一人の人間を調べるうえで、実は重要なポイントとなると思っている。

私は旧制中学の一年生の時に母の実家がある信州・上田に疎開した。二年生の五月に父はシベリアの抑留先で病死している。母に育てられたから、母系の血脈に関心を持ったのかもしれない。

上田は真田幸村の居城があった地である。市民の誰もが六文銭の旗を掲げて徳川軍を悩ませた真田の兵を誇りに思っている。多くの人は幸村の父・昌幸、祖父の幸隆のことを知っている。だが私の関心は別のところ、幸村の妻と子女にあった。(幸村画像)

幸村の妻は大谷刑部少輔吉継の娘、於利世(おりよ)。大谷吉継は関が原の戦いで石田三成方に立ち、輿に乗って奮戦したが、敗北し自害して果てた。ハンセン病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。

幸村の子女として四男九女説が伝えられている。長子の大助は大阪夏の陣で秀頼に従って殉死している。大八という名の男子がいたが、節句の日の石合戦で石に当たって死亡したといわれている。他の男子のことは分からない。夭折したのではなかろうか。

むしろ於利世の方との間で生まれた女子の方が分かっている。大阪夏の陣で討死したとはいえ幸村の武名は天下に轟いた。於利世の方は大阪落城の前に娘たちを連れて逃れたが、徳川方に捕縛されている。於利世の方は間もなく亡くなった。女子たちは無罪赦免となって、成人するや武将の妻になった者もいる。

長女は「いち」。関ヶ原の戦い後、幸村が幽閉された九度山で亡くなっている。「梅」は仙台藩士・片倉小十郎景長の後妻となり、白石城一万五千石の奥方、この末裔は明治維新後に男爵となった。家紋を六文銭としている。六文銭は「六連銭」というのが正しい。信州・滋野氏の代表家紋で、その一族の海野、真田氏や浦野氏、駿河安倍氏、矢島氏、大戸氏、羽尾氏が用いている。

「あぐり」は蒲生源左衛門郷真の妻となった。郷真は蒲生氏郷の一族で陸奥三春三万石の城主。このほか於利世の方の娘ではないが、幸村家臣の石合十蔵道定に嫁した「すへ」がいる。

真田家系図には大助、大八が出ているが、女については出ていない。姓氏家系大辞典(太田亮著)に白石片倉氏の詳しい記載があるが、「梅」のことには触れていない。他の資料から探し求めるしかない。

見逃せないのは、幸村の華々しい討死の蔭で家康方についた幸村の兄・信之の存在ではなかろうか。真田の名が後世に伝わったのは、信之が真田の家名を守ったからだといえる。信之の妻・小松殿は家康の養女。実父は徳川譜代の重臣・本多平八郎忠勝である。小松殿はその長女。

信之は上州・沼田城を預かったが、関ヶ原の戦いの前夜、昌幸がこの城を訪れている。生憎、信之が不在だったが、小松殿は甲冑に身を固め、長刀(なぎなた)を携えて、昌幸一行が城内に入るのを拒んだ。まさに本多平八郎忠勝の娘の面目躍如たるものがある。

信之の小松殿が徳川重臣の長女、幸村の於利世の方が豊臣重臣の娘ということは、妻方の血脈によっても、この真田兄弟が徳川方と豊臣方に別れて戦う運命にあったことを示している。しかし大阪城の落城後、この兄弟の縁(えにし)は幸村のもう一人の娘・お田の方の存在によって思わぬ展開をみせている。

話はガラリと変わる。常陸国の太守だった佐竹義宣が、秋田に国替えとなった時に、弟の多賀谷宣家(宣隆に改名)も檜山城に入った。宣家は多賀谷家に養子入りして、多賀谷重経の娘と一緒になっている。

関ヶ原の戦いで石田三成方についた多賀谷重経は家康から疎まれ、常陸国下妻城を逃れて琵琶湖の湖畔で憤死した。養子の宣家はやむなく佐竹家に帰参、重経の娘と離別している。家康の追及を怖れたのである。兄の義宣とともに伏見城に赴き、ひたすら恭順の意を示して家康、秀忠の勘気を解くことに汲々としている。

一国一城令によって檜山城も破却され、名を宣隆と改めた宣家は、伏見城で一人の女性と運命的な出会いをした。この女性はお田の方、真田幸村と隆清院の間にできた忘れ形見であった。大阪城の落城で隆清院とお田の方は町人に姿を変えて、京都に隠れ住んでいたが、徳川方に捕らえられた。(顕性院・お田の方の画像)

このことを知った真田信之は二人の助命嘆願をして、後にお田の方は江戸城大奥に仕えている。十五、六歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。佐竹義宣の上洛に際して、給仕係りとして身の回りの世話をしたが、それを妻と離別していた宣隆が見そめた。

この裏には遠く秋田の地に国替えした佐竹氏に対する徳川家の深謀遠慮があった様に思う。お田の方を宣隆に娶せることによって、佐竹一族の動きを内部から監視する狙いがあったのではないか。真田信之も、それに一役買った気がする。

徳川幕府側の思惑は別として、宣隆の後妻となったお田の方は、後世に名を残す賢夫人となった。宣隆の長男・重隆は、亀田藩の名君といわれたが、賢母・お田の方から受けた訓育が大きかったという。

幼少の時から苦難の境遇に置かれたお田の方は、数奇な星の下で生まれている。祖母は豊臣秀次の夫人・一の台。秀次は秀吉によって高野山で切腹、一の台は三条河原で処刑されて果てた。母・隆清院は仏門に入って両親の菩提を弔っている。

この事件は秀頼の誕生によって秀次が邪魔になった秀吉が、秀次謀反説をデッチ上げたのだと思うが、三条河原で処刑されたのは一の台はじめ継室、側室と秀次の遺児ら三十九人にのぼった。

しかし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。小督の局の娘のお菊、幸村の側室・隆精院、公家の梅小路氏に嫁いだ娘の二人は難を逃れた。秀次の母・智子(日秀尼)も処刑を免れている。秀次の正室は池田恒興の娘・若御前だが、助命されている。継室の菊亭大納言晴季の娘・一の台が処刑されるなど犠牲者の選択に一貫性がない。

ともあれ実母の非業の死をみた隆精院の悲しみは想像にあまりある。寛永十年に死去し、京都の菊亭大納言晴季邸で盛大な「報恩供養法会」が営まれた。お田の方は特使を派遣して隆精院を弔っている。ますます法華経の信仰を厚くする毎日だったという。

さらには子の重隆の訓育に厳しく、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えている。顕性院と称したお田の方は、亀田に顕性山妙慶寺を建立した。一度は訪れたいと思っているが、まだ果たせない。

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