西夏の繁栄今いずこ 古沢襄

古代西北アジアに興味があると言っても、歴史本や旅行記を読むだけでは、実感がいま一つ沸いてこない。さりとてテレビのシルクロードものは、古代史については短く触れるだけでもの足りない。

そんな私の不満を埋めてくれているのは、昭和五年に出版された白鳥清編の「東洋史概説」。この本は旧制第一高等学校でも参考書として使われている。日本で初めて西北アジアなどを含めた”東洋史”の本といっても良いのではないか。それまでの東洋史は”支那史”が大部分であった。

だが私が、この本を大切にしているのは、付表である六枚の地図を重宝しているからだ。漢代の地図にはバイカル湖西方に古代トルコ民族が建てた「丁零」「堅昆」が記載され、その南に「匈奴」がある。

六枚の地図は①漢代亜細亜形勢図②三国鼎立時代形勢図③唐代亜細亜形勢図④宋金対立時代亜細亜形勢図⑤元最大版図⑥清初の亜細亜。戦前は歴史と地理が一体のものとして私たちは学んでいる。

シルクロードといっても、その道は中国の新疆ウイグル自治区、陝西省、甘粛省、青海省、寧夏回族自治区、内モンゴル自治区、さらにパキスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタンと気の遠くなる旅をしなければならない。全行程を踏破することなど出来る筈がない。

この道はモンゴル騎兵の集団がヨーロッパを目指して突進した侵略の経路でもある。地図でいえば「⑤元最大版図」に当たる。だが私は、もっと昔の古代トルコ民族がバイカル湖を目指して、広大な草原を渡ってきた経路に関心がある。地図でいえば「①漢代亜細亜形勢図」に当たる。この地図では日本のことを「倭」と表記してある。

今の人は地図の表記で戸惑うのではないか。古代トルコ民族が建国した「丁零」は「零丁」、「堅昆」は「昆堅」となっている。漢字を左から右に読むのは戦後の表記である。戦前は右から左に読んでいた。

ジンギス汗が最大の敵である東の金国(女真族)を攻略するために、西の豊かな国だった西夏国を攻めたのだが、両国が如何に強大な国家だったかは「④宋金対立時代亜細亜形勢図」を見れば一目瞭然である。モンゴルはまだ北の「蒙古部」でしかない。

西夏国が長く繁栄したのは東西交通の要路を占めた地理的な利点があった。宋・遼(金)とのあいだに立って中継貿易の利を得ている。主要産業は牧畜で馬・羊・ラクダを飼育している。馬・牛・羊・ラクダ・毛氈・蜜臘などを輸出する一方で,絹織物・香薬・磁器・漆器などを輸入し、仏教・儒教を基調とした西夏文化が栄え西夏文字も作った。黒水城・敦煌などの仏教美術関係の遺蹟でも有名である。

この独自文化を創ったのは、タングート(Tangut)と呼ばれたチベット系民族といわれる。七世紀から十三世紀にかけて、中国西北の四川省北部・青海省などで活動している。1227年にチンギス汗によって滅ぼされた後は、タングートは色目人の中に組み込まれている。

中国は西夏国を異民族視してきたので、積極的に史跡を保存したり、発掘してこなかったが、最近になってようやく西夏王陵の近くに小さな博物館ができて、西夏国の歴史年表や王陵の復元図などが展示されるようになった。西夏文字の研究は日本の方が進んでいるのかもしれない

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