沢内年代記を総覧的に読み解く高橋繁さん  古沢襄

高橋繁さんの「沢内年代記を読み解く」や私の「孫娘の卒論・退休遺書に教えられる」がよく読まれている。想像も出来なかったが米国や中国の日本人ブログにも転載されていた。私自身も経験があるのだが、海外で一人でホテルの夜を過ごすと、日本が懐かしく愛国者的になる。

高橋繁さんや私が書いているのは、奥羽山脈のふところに抱かれた寒村の歴史に過ぎないのだが、大都会や海外に出ている人たちにとっては、かつて自分たちの祖先が過ごした土地、風俗と重ね合わせて、読んでくれているのだろう。東北には日本人の心に触れる何かがある。

投書や感想文も多く頂いた。その一例。

<<私の親父の出た左草の話を拝読できるとは思っても見ませんでした。佐々木保夫さん宅は上左草ですね。屋号が染屋。ただ、沢内年代記と十把一柄げにするのはおかしいと思います。もっと言えば「異本」とは何事ぞ!そんな思いです。

南部藩では「通」という行政区での施政でしたから「沢内通年代記」と称するのが適正かと思われます。まあ、ご先祖様はわれの村のことは考えても通全体の事なぞ考慮しなかったと思いますけど。

役場に寄贈した古文書や近隣の古文書をかき集めて文庫を作りたい、それが私の夢です。定年になったらでは遅いので、いまから少しずつ下地を整えています。子どもたちに「お父さんは、我が家の文庫を作る。途中で逝ってしまうかもしれないから、後はよろしく・・・」と言っています。

文庫を作らねばとの思いに目覚めたのは・・・越後谷幹雄氏の記された合本「明治時代の湯田村」「桂子沢村の集落史」-湯田町の昔の村々の姿-を拝読してからです。(山田芳広)>>

きちんと署名入りの感想文。五月には西和賀町を訪れるので、山田さんに会ってみたい。人の輪は、こういう繰り返しで広がっていく。

沢内年代記と十把一柄げにするのはおかしいと思います。もっと言えば「異本」とは何事ぞ!そんな思いです・・・は正直な思いであろう。私はシベリア奥地のホテルでものすごく愛国的になった夜を思い出した。「異本とは何事ぞ!」という自負が、地域の文化や伝統を守ってくれる。

「沢内年代記」は昔の沢内通、現在の西和賀に古くから伝承された年代記である。湯田町と沢内村が合併する前から私たちのグループ・杜父魚塾は「沢内通はひとつ」が合い言葉であった。両町村を合わせて八千人足らずの地域が、町だ村だと言って地域エゴをむき出しにしても始まらない。

歴史的にみれば、沢内村に代官所が出来て、行政の中心地になった頃には、湯田邑は僻地に過ぎない。延宝四年(1676)の沢内年代記(巣郷本、下巾本、白木野本)には「三月(沢内村の)新町に家数・五十三軒建つ」とある。

それから十年後の貞享三年(1686)の巣郷本と白木野本には「上左草・与十郎の子与助が、我らが家、仙北より来たりて、何年になるかとオヤジ殿に問う。オヤジは万治三年(1660)に此所に来た。すでに二十九年、それまでは家が一軒もなかったが、今は十四軒になった」と答えている。

新町系の下巾本には、この記載がない。また和賀湯本温泉が発見されたのは万治元年(1658)だが、飢饉が相次いだ江戸時代には発展の余地がなかった。鉱山景気に沸いた明治以降、他県から鉱夫が多数入り込んで、湯田町は空前の温泉景気で潤った。

九種ある沢内年代記にはいずれも原本が残っていない。この中で最も古いのは白木野本の写本。私ごとになるが、天保二年(1831)の白木野本に「古沢屋善蔵」の名がでてくる。善蔵は天明二年(1782)生まれ、万延元年(1860)に死去。沢内・古沢氏の四代目の人物である。

三代目の人物は善兵衛といった。沢内村馬肝入・善兵衛の名がある古文書六点が現存するが、沢内年代記にはその名が出てこない。善兵衛は嘉永二年(1849)に死去した。村肝入、馬肝入は、代官所が任命する村役のことである。ランク付けをすれば、代官(盛岡藩の下級武士)・下役(代官が任命した御給人などの郷士)・肝入(代官が任命した百姓の長老)ということになる。別に盛岡藩直属の古人という職掌があった。

原本は存在しないが、写本の中で最もよく整っているのが巣郷本。湯田・左草付近の記事が目立つ。左草所伝本(現存しない)を書写したものと言い伝えられている。巣郷本も白木野本も左草系という点が面白い。巣郷本の表紙には「陸中国和賀郡 澤内年代記」、白木野本はただ「澤内年代記」とある。

高橋繁さんの「沢内年代記を読み解く」は、巣郷本や白木野本にとらわれずに九種ある異本を読み解きながらこの地域の歴史を見るという画期的な仕事をやっている。私は「沢内農民の興亡」と「一点山玉泉寺物語」を刊行したが、前者は沢内年代記に依拠しないで、盛岡藩雑書と地域の古文書を多用した。

これには理由がある。沢内・古沢氏の先祖たちは、地域の豪農にのし上がったが、代官所からみれば一介の農民でしかない。沢内年代記の下巾本には名が出てこない。しかし盛岡藩は、沢内村を取り巻く山の見回り役として、代官所とは別個の藩下役である御境古人、御山古人に任命し、苗字(古沢屋)と帯刀を許している。これが盛岡藩雑書にでてくる。

後者の「一点山玉泉寺物語」は寺に伝わる「沢内開闢稔代記」と「沢内年代記(越中畑本、印刷本)」、高橋子績の「沢内風土記」に多くを依拠している。玉泉寺は沢内村太田にあるので、このような手法をとっている。それだけに沢内年代記を総覧的に読み解く高橋繁さんの仕事には、興味を駆られている。

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