孫娘の卒論「退休遺書」に教えられる 古沢襄

高橋繁さんの<「沢内年代記」を読み解く(十)>は、宝暦六年・丙子(ヒノエネ)一七五六年の記録まで来た。この宝暦年間に遡る延享五年(1748)に作られた沢内・古沢氏の墓碑が残っている。

また次の十一章で出てくると思うが、宮古代官所から沢内通に左遷された高橋子績が猿橋部落にきたのが宝暦十二年(1762)。配流中に著した「沢内風土記」は、この地の地誌・風俗・習慣について詳しく記述した第一級の資料となっている。

「沢内年代記」の成立過程は定かでないが、高橋子績の「沢内風土記」の影響もあった様に思う。高橋繁さんが最初に書いた様に古くから伝承された年代記には九本の異本がある。大別すれば、旧湯田町左草を中心とした巣郷本、印刷本、白木野本、安部本、南部本の五種。また沢内村新町を中心とした下巾本、才代記本、草井沢本の三種と草井沢系といわれる草井沢本「才時記」の一種。

特徴的なのは、左草系は気象、地震、農作について詳しく説話的な内容が多い。古老からの聞き取りが多くみられる。新町系は代官所が設置されたこともあって、歴代の代官(藩士)やその下役となった御給人(郷士)についての記載が詳しい。

この中で注目されるのは左草系の巣郷本や白木野本に影響を与えたとみられる「退休」という人物である。

退休は秋田県大森町筏から天明六年(1786)ごろ湯田村左草に移り住み、玉泉寺の過去帳によると文政六年(1823)に没している。「退休遺書」を読むと、当時としては卓越した漢学の素養があったことが偲ばれた。この末裔に偶然だが、会うことができた。四年前のことになる。

<<岩手県西和賀町に左草(さそう)という土地がある。秋田県と岩手県を結ぶ旧街道の中間点だが、小高い丘に位置するので、生えている草が風に吹かれて左へ左へ靡くことから、この名がついたと古老から教えられた。

私の先祖は、五代善治の時にこの村の旧家・佐々木家から妻を迎えている。「明治戸籍」によるとその人の名は、陸中国湯田村佐々木市右衛門伯母・クマとなっている。文化十四年(1817)生まれ、明治十一年に六十二歳で没していて、菩提寺の玉泉寺にある過去帳では「教海清雲大姉」の戒名がついている。

旧沢内村で講演をした時に、そのことに触れたが、市右衛門家が現在も残っているのか定かでなかった。それを聞いていた旧湯田町長の細井さん(現在は西和賀町長)が、役場に戻って調べてくれたら、左草の旧家・佐々木家に間違いないと知らせてくれた。

次回の講演会の時に、細井町長が町長車を提供してくれて、左草の佐々木家を訪ねた。当主は九代・佐々木保夫さん、先祖に弘化三年(1846)生まれの市右エ門さんがいたという。その父も同じ市右エ門。年齢から類推すると父・市右エ門さんの姉がクマになる。

古沢善治とクマの間に天保十二年(1841)、一人娘のムラが生まれているから、クマが左草から沢内の古沢家に嫁したのは、天保七、八年ごろのことであろう。百六十年以上も昔のことだ。

左草の旧家・佐々木家には、「退休遺書」というおよそ二百年昔の古文書の写本が遺されている。和綴じの写本は、明治十七年(1884)に書き始めたもので、これも百十六年の歳月を経た貴重な史料。

「返して下れば良いのですから、お持ち下さい」と佐々木保夫さんに言われて一カ月間のお約束で、この貴重本をお借りすることにした。さらに保夫さんはモジモジしながら「ついでに孫娘の卒業論文もどうぞ」と14ページのプリントまで頂戴した。孫娘は佐々木昌子さん。

古文書の解読には自信が無かった私だったので、「退休遺書」は多少重荷になっていた。貴重本をお借りしたものの「弱ったな」という思いが先に立っていた。ところが、帰途の新幹線の中で卒業論文を読み出したら、「退休遺書」が見事に解読されていて驚いた。

退休は秋田県大森町筏から天明六年(1786)ごろ湯田村左草に移り住み、玉泉寺の過去帳によると文政六年(1823)に没している。「退休遺書」を読むと、当時としては卓越した漢学の素養があったことが偲ばれた。

論語や詩経の引用文が随所に出てきて、辞世の句は「世の中に 路ごとなけれ 思いいる 山の奥にも 鹿のなくらん」という見事なもの。優れた教養人であった。

旧沢内村教育委員会が平成十二年に「陸中国和賀郡 沢内村年代記」を刊行したが、湯田町・沢内村に古くから伝承された幾種類かの異本を系統的に大別した総集編で退休の名が出てくる。現在では沢内村年代記の左草本は、原本を退休によって付加追記されたものとされている。

それにしても嬉しかったのは、旧家の孫娘が大学の卒業論文に家に伝わる「退休遺書」を取りあげて、左草の歴史や館跡の考証をしたことだ。西和賀には旧家が多く残っているので、未公開の古文書が家の宝として残っている筈。

佐々木昌子さんのような試みが、これからも出てくれば、未解明の地方史が光を浴びることになる。これだから地方講演はやめられない。>>

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