〔延宝元年 癸丑・・・1673年の記録〕「沢内年代記」の記録の始まりである。
①「寛文十三年に年号が変わって延宝となった」と記されている。
癸丑(ミズノトウシ)は「十干十二支」の組み合わせの年であるから変わらない。年号が変わることを「改元」という。中国では漢の時代から皇帝の交代、治政方針の改正に合わせて改元された。
日本では、645年の大化1年と定めたのが最初。大宝律令で明文化され、明治維新で一世一元の制度を採用。1979年に元号法が成立している。
②「隠元派の仏教を開いた、隠元禅師が遷化(亡くなられた)」とある。
隠元禅師は中国福建省に生まれる。俗名は林曹炳。中国の臨済宗の嗣法(正しく法統を受け継いだ高僧)。承応3年(1654年)二十名程の弟子を率いて来日。禅宗各派の改革に手本を示され、京都に「黄檗山万福寺」(黄檗宗)を創建された。寛文13年(1673年)4月3日に遷化された。82歳であった。
この情報が「沢内」に伝わるまでの時日は、どれだけであったか不明。「上方参り」等の旅行日程から考えると、1カ月以内に伝わったのではと思われる。
「インゲン豆」は隠元禅師が中国から伝えた豆といわれる。岩手が生んだ原敬総理大臣が眠る、盛岡市の「大慈寺」は黄檗宗である。
③「真木野(マギノ)より、湯ノ沢見立、湯ノ沢村始めて立ツ」とある。
「真木野」という村から見る「湯ノ沢」と呼ばれている地域が村になつた。と解される。戸数は何戸で、人口はなどということは記録されていない。おおかた、10戸から20戸程度でなかったかと思われる。
「始めて立ツ」と記された事情を考えると、村のまとめ役やリーダーが決まっていることも意味しているように解される。
〔延宝二年 甲寅(キノエトラ)・・・1674年の記録〕
①黒雲が飛んだ。「巾一丈五尺(約5m)長さ十丈余り(約30m)の黒雲が、北より出て矢のような速さで東南に
飛び去った。」と記録されている。
これは、北極や南極で見られる「オーロラ」であると思われる。この当時、京都府あたりまでオーロラが見られたという記録がある。何時、どのような人々がこの事実を観たのか。また、記録したのかを考えると、たいへん興味深い。「沢内年代記」の記録に当たった人は、一人ではなく、仲間やグループがいたのではないかと思われる。
②「四月閏有」とある。
陰暦は月の満ち欠けを基にした暦で、一年は354日であった。そのため、季節と暦が合わなくなることが起こる。その調整のため、ある割合で一年が13ヶ月になる年をつくった。閏年である。
この年は、四月が2回有る年であったということである。
③「湯田耳取村始めて立ツ」
湯田の耳取村(ミミトリムラ)が出来た。公的に認められたということと思われる。
〔延宝三年 乙卯(キノトウ)・・・1675年の記録〕
①八兵衛の穴
「太田村に八兵衛という者がいた。この者は砥菅山(トスガヤマ)で切り殺され、首と体が二ヵ所に放置された。この場所に直径3mの穴が二つ出来た。
原因は、八兵衛の女房を奪い取ろうと、無理難題を仕掛けた男が居て、その男が殺したに違いないという噂である」
いつの時代も、人間の欲望は変わらないものだと思う。八兵衛の女房はおそらく美人であったと思われる。邪悪な人間もいつも居るものなのだと思う。八兵衛という人は美人と結婚したばかりに無残な一生を終えたことになる。美人と結ばれた男たちは、さぞ緊張し、気遣いし、用心されたに違いない。
殺された八兵衛の名はあるが、横恋慕した男の名も、女房のことも、その後のことも何一つ記されてはいない。
村中が大騒ぎする事件であったと思われる。記録者は、事実の他は余計な詮索をしていない。そこに、記録者の見識の高さ、品格を感じてならない。「沢内年代記」でも「下巾本」にはこの事件の記録はない。
②「大凶作」
「凶作」というのは、天災や気候不順のため農作物の実りが、たいへん悪く、収穫が少ないことである。これに「大」がつくと、収穫は極端に少なく、例年の一割にもならない年もあったという。
人々は、苦しい生活を強いられたに違いない。
〔延宝四年 丙辰(ヒノエタツ)・・・1676年の記録〕
①新町の町割(町づくり)
三月(陰暦。現在では四月から五月)、新町に五十戸の家が建つた。
町割(町の計画・一軒の敷地規格区画)は、表口(横の長さ)八間(約15.84m)、裏行(縦の長さ)二十五間(約49.5m)の規格にして百戸分の住宅地を定めた。
「新町」という地名は、この時から始まったのか。この以前から「新町」があったのかはよく解っていない。
平成13年(2001年)に発刊された「新町区史」には「その百年も昔の元亀元年(1570年)「新町上町に大神宮創建」(大神宮文書)とあるように、神明様が祀られる以前から「新町」という呼び名があったものだろうか」と記されている。
さらに、「新町区史ーしんまち」には、「この年、新町堰も完成し、東西に広がる原野の開拓、灌漑の大事業が行われたことがよく分かる。」と記されている。
②「甲子村始めて立ツ」
甲子村(カッチ村)は、現在の湯川にある。
③「同所、山神堂建つ」
甲子村に、山の神様のお堂が建った。甲子村が内外ともに充実した村として公認されたということ解される。
〔延宝五年 丁巳(ヒノトミ)・・・1677年の記録〕
①「十二月閏有」
十二月が二回あった年。閏年については、延宝二年の項で解説しているので参照されたい。
②「中作」作物の出来具合、実り具合は中作。例年並であった。
〔延宝六年 戌午(ツチノエウマ)・・・1678年の記録〕
①「中作」・・・「巣郷本」にはこれしか記していない。作物の実り具合は例年並。
②「下巾本」には「西本願寺経蔵供養あり」と記されている。
そのまま読み取ると「京都の西本願寺の経蔵(お経を収めている蔵)の供養法要があった」ということである。西本願寺に関係する僧、あるいは信心深い信徒から得られた情報が記録されたと思われる。