「沢内年代記」を読み解く(七)  高橋繁

享保二年 丁酉(ヒノトトリ・・・1717年の記録)  
①この年、米の収穫高は平年の半分、「半作」であった。去年の「申」(サル)年は、米の実りが悪く(不塾)であったので、米の値段は上がった。1升(1.5㎏)は、40文(2.000円)から45文(2.250円)になった。《注:この年、大岡越前守忠相江戸町奉行に任命される。幕府、享保元年より「享保の改革」を開始している。「歴史年表」より》

享保三年 戊戌(ツチノエイヌ・・・1718年の記録) 
①二月十五日と八月十五日に 月蝕があった。
②十月 閏有り。
③御代官 村角安左エ門

享保四年 己亥(ツチノトイ・・・1719年の記録)  
①米の収量、「半作」 平年の半分の収量しかなかった。
②正月一日と十六日に月蝕があり、七月十四日にも月蝕があった。
③七月五日に、虫が雲のように降ってきた。 「虫降事如雲」と記録されている。この「虫」はどんな虫であるのか、記録にはない。予想される虫の中で、一番有力なのは「蜘蛛・クモ」の幼虫説である。「クモの子を散らす」という言葉があるように、「クモ」の幼虫は四方八方に飛び散るという。

『孵化したばかりの幼グモは、丈の高い草などの先端に登って風の方向に頭を向ける。そうすると紡績器から出された糸は風に吹き流され、その糸によつて幼グモは空中に舞上がる。この方法でクモ類はかなりの距離を飛ぶことができる。

実際、陸地から何百キロも離れた船の上でクモを捕らえた記録がある。この飛行は一年中みられるが秋に多く、「天使の糸」と呼ばれる。』 (ブリタニカ国際大百科事典)とある。クモには種類が多く、日本では約1200種が知られているという。

クモだとしたら何処から、どうして雲のように沢山飛んで来たか疑問が残る。クモの異状発生とか異状気象とかの自然現象によることは確かである。
④御代官 江刺家孫吉

享保五年 庚子(カノエネ・・・1720年の記録)
①七月一日 日蝕。 十二月十六日 月蝕。
②西和賀町 湯本温泉の「山室橋」(やまむろばし)が、初めて架かる。和賀川に架かる橋で現在の橋の位置より、少し上流の浅瀬にあったと伝えられている。

③米の出来具合は始め「半作」ぐらいにみられていたが、南部領はもちろん仙台領も秋田領も稲の刈り取り前に大雪が降り、大飢饉となった。「草井沢本」には『十月十八日大雪五六尺(1mから2m)程ふり、大豆、小豆、そば 雪の下に仕る』と記録されている。
④御代官 外岡与一右エ門

享保六年 辛丑(カノトウシ・・・1721年の記録)
①御代官 外岡一右エ門様が村々を見廻った折、湯田村の長四郎宅に休憩された。そして長四郎に「あなたの家は昔からの農家ということであるが、開墾されたのはいつごろであるか知っていますか」と聞かれた。

長四郎は「私の祖父が伝えた話しでは、慶安五年(1652年)承応と年号が代わった年に御上様(殿様)にお願いし開拓の許可証をいただき、この湯田の南野を開拓したそうです。この時から家が建つようになり、湯田下村と呼ばれるようになったと言うことです。これより北の上村はどれほど早くから出来ていたのかは分からないということでした。」とお答え申し上げたということです。

享保七年 壬寅(ミズノエトラ・・・1722年の記録)
①十一月十五日 月蝕。
②十二月二十三日 一夜に雪五尺余り降る。 一晩に雪が150cmから160cm降り積もった。(1尺は30.3cmとして換算) 一晩に50cmから1mぐらい降り積もるのは珍しくないが、これは記録的な積雪量である。ただし、降り続いた時間は「一夜」とあるだけで、確な時間は分からない。
③御代官 小菅治郎兵衛 箱石八十八

享保八年 癸卯(ミズノトウ・・・1723年の記録)
①五月一日 日蝕。
②八月十日 南から大風が吹き、大地震があった。家は吹き倒され、人々は皆迷い困った。「南からの大風」は台風と思われる。「大地震」の震源、強さ、被害等は不明である。
③八月二十五日 大霜が降り、大豆、小豆は皆枯れ死んだ。

④九月には、また大霜が降り、たばこ、粟、そば 皆枯れ死んだ。
⑤「凶作」で、米の値段は1升(1.5㎏)が58文(2900円)から67文(3.350円)までになった。(「当時の1文は、現在のお金に換算すると50円相当として換算した。」「武士の家計簿」より)「草井沢本」には、『田畑共にたね無し。そばたねも無し。』と記されている。

人々の呆然とした姿が浮かぶ。「タバコ」の収穫後の処理はどのようになされていたのだろうか。専売公社も無かった時代、自給自足のためだったのだろうか。年貢との関わりはなかったものだろうか。《注:この年、幕府は6年ごとの人口調査を定める。「足高の制」を定む。「歴史年表」》

享保九年 甲辰(キノエタツ・・・1724年の記録)
①四月 閏 有り。
②米はじめ作物の出来具合は「中の上」。平年よりも多く収穫できた。

③秋田米は一升(1.5kg)で七文(350円)。大豆一升(1.8㍑ただし、米以外の穀物は計量升いっぱいに盛り上げて計った)は七文(350円)。小豆一升四文(200円)。油一升(1.8㍑)は十八文(900円)。穀物等の値段があまりにも下がり、農家はかえって困った。「油」は、「なたね油」で食用にも灯りにも使用された。《注:この年二月、幕府は「米価下落につき諸物価引下げを命ずる」「歴史年表」》

享保十年 乙巳(キノトミ・・・1725年の記録)
①三月十五日 月蝕。
②八月二十七日 西から大風が吹き、家は吹き倒され、樹木は吹き折れた。場所によっては山々の斜面の樹木は将棋倒しに全部倒れた。実に恐ろしいことであった。

③湯田郷下通りの岩の目太右エ門という人の屋根上に置いてある「家塊」(ヤグレ)三枚が「耳取り」というところまで吹き飛ばされた。 「家塊」というのは「茅葺屋根の一番上、棟に置かれる土くれのことである。」 置かれる訳は、一つには風に茅が飛ばされないための重しの役目、もう一つは火事の際の防火の役割を果たすためであったという。

なお、「岩の目太右エ門」(巣郷本)、「岩メ目多右エ門」(下巾本)、「岩之目左右エ門」(白木野本)と人名の表記が異なっている。草井沢本には記録されていない。

享保十一年 丙午(ヒノエウマ・・・1726年の記録)
①三月十五日 月蝕。
②新町の検断(ケンダン。検事と裁判官を兼ねたような役職)八兵衛家より「天国の鑓」(アマクニノヤリ)が殿様に献上された。

「天国の鑓」献上については、南部藩の歴史書「内史略」(全五巻)横川良助著に記載されている。『天国の鑓はもとは仙台の佐藤庄司という人の鑓であった。この鑓は平泉高館に住む長右衛門という者の手に入った。岩谷堂(江刺市)の嘉兵衛という馬買いが、長右衛門に馬を売り渡したが、長右衛門に代金がなかったので、代わりにこの鑓を受け取った。

嘉兵衛はこの鑓を沢内村の清右衛門(八兵衛の父)に手渡したものであるという。清右衛門は年寄りになり、その子八兵衛に譲り渡した。このことを楢山という家老に紹介し殿様に献上するように進めたのは花巻川口町の喜右衛門という人である。喜右衛門はその働きによって、褒美として「一人扶持」(給料として米を一年分を与え家臣とする。)を与えられた。』とある。

馬買いの嘉兵衛が沢内に来て清右衛門から馬を買い、代金としてこの鑓を渡したとは記していない。清右衛門の祖先は平泉の藤原一族の残党で、家宝として「天国の鑓」を大事に保管していたのではなかったか。そのことを表明すれば、頼朝の御家人を祖とする南部の殿様に差しさわりがあると考えたのではなかっただろうか。いずれ「天国の鑓」は大変に珍しく、高価であったに違いない。
③御代官 大澤甚右エ門 藤根清右エ門。

古沢襄の注記=高橋繁氏の力作は佳境に入ってきた。

奥羽山脈の懐に抱かれた沢内村という寒村で「沢内年代記」という古記録が現代まで伝わっていることは、まさに驚くべきことである。これには理由がある。南部藩によって滅ぼされた和賀一族(鎌倉武士)が滅亡後、沢内の里に隠れ住んだことや、盛岡藩(南部藩)の政治犯が遠追放の地である沢内村に預かりの身となって、寛文十三年(1673)から慶応四年(1868)までに百六十九人が、この地に追放されている。

四囲を峻険な山に遮られた沢内の地であり、冬には3メートルにもなる雪が積もって”陸の孤島”になるので、追放された流刑人は村の富裕な農家に預かりの身となって、比較的に自由な行動を許されている。多くは村人に書を教え、閑な日々を紛らわしていたのであろう。

幕末には沢内村の寺子屋(私塾)の数が近村に比して図抜けて多い記録もある。村の文化水準が高いというのは、こういった事情と無縁ではない。

「雫石歳代日記」によれば沢内代官所が作られたのは寛文十二年(1672)。したがって「沢内年代記」にある”御代官”は雫石代官所のお役人が兼務、沢内村には見回りに来ていたのであろう。翌年から盛岡藩の遠追放が始まったことと考え合わせると興味深い。

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