延宝七年 己未(ツチノトヒツジ・・・1679年の記録)
①青倉山の岩穴
細内村(ホソナイ村)に、次郎右エ門という浪人がいた。この浪人、岩倉山(イワクラヤマ)に岩穴があることを知ると、
「私は、この岩穴の中がどうなつているか調べたい」と言い、岩穴の中を調べることになった。知り合いの人たちと準備をした。
いよいよ調べる日が来た。次郎右エ門は、付き添ってきた知り合いの人たちに、
「もし、この穴に熊なんぞいたら儲けもんだよ」と言いながら、腰に細引き(麻糸をよつて作った丈夫な細い縄)を着けた。
「この穴の中で、何かあった時にはこの細引きで合図しますから、その時は引き上げてください。」と言って、穴の中に這入って行った。
人々はどうなることかと、固唾を呑んで見守っていた。しかし、何の合図もなかった。時が経つにつれ、人々は不思議に思い、やがて心配になってきた。
誰が言うともなしに、細引きを引いてみた。なんと、細引きはいとも簡単にするりと抜け出てしまった。細引きをよくよく調べてみたら、何の疵もなく、手で結びを解いたとしか思われなかった。いくら待っても、次郎右エ門は二度と再び姿を現すことはなかったという。
延宝八年 庚申(カノエサル・・・1680年の記録)
①家綱公御他界(徳川四代将軍が亡くなられた)
このため、この年九月に改元(年号が変わる)があった。年号は「天和」となる。 「巣郷本」には記録されていない。「下巾本」「白木野本」に記録されている。
「家綱公」は年少で将軍職を継ぎ、病弱であった。保科正之や松平信綱等が補佐し、「老中政治」を確立したといわれる。
②耳取村の「岩ノ目堰」始めて上がる。耳取村の「岩ノ目堰」(用水路)が完成し、公認された。
天和元年 辛酉(カノトトリ・・・1681年の記録)
①掃部惣二郎が捕らえられた年
上左草村の与助が、父親である与十郎に質問した。「家の向かい野に住んでいた、掃部(かもん)惣二郎という盗人が捕らえられてから、今年で何年になるのですか。」
父親の与十郎が答えて言うには、「惣二郎が捕まったのは、寛文五年(1665年)三月であった。盛岡より捕り手役人が来て、惣二郎は斬られた。掃部の家族は村から逃げ去った。今年で十七年になる。」とのことであった。
②「下巾本」には、「延宝辛酉九年めに、改元有りて、天和と成る。」とある。
③「下巾本」には「リウキウの人来る。九月拾五日」との記録がある。どのような人で、何のために、などの記録がないのが残念である。おそらく、この地に最初に来た沖縄の人であると思われる。
天和二年 壬戌(ミズノエイヌ・・・1682年の記録)
①「御高札始めて掛かる」
高札は、法や制度を住民に周知徹底させるために、人のよく集まる箇所や道路わきに立てた掲示板である。時にはさらし首や重罪人の罪状も掲示された。この高札が始めて沢内に立てられたということである。掲示の内容は、次に記す「総収穫高」に関するものでなかったかと、想像されるが、記録にはない。
②「惣竿御通し御改めの高、二千四石」
沢内通りの米の総収穫高が、役人の測量によって改められた。二千四石とされた。米の一石は、重さに換算すると約150kgとされる。二千四石は150kgの2004倍であるから300tと600kgである。米俵1俵は約60kgとして換算すると、5、010俵となる。
この年以前の総収穫高は、七百石(約105t)であった。約3倍の総収穫高に決められたことは、それだけ年貢米(税)が増やされ、取立てが厳しくなったことでもある。
③代官が来る
「此年御代官、伊藤七平、城弥三右エ門沢内に来る」とある。この場合の「来る」は、「着任」したという意味なのか、一時的な現地視察に「来た」という意味なのか不明である。
ただ、この後8年間の記録には、「御代官」の名前がないことを考えると、一時的に現地に来たと解するのが妥当と思われる。
④「高鼻の上」(タカハナ)地域は、川尻領(区域)であったが、この年から湯川領(区域)となった。現在の「行政区」の変更に当たるように思われるが、「領」と言う意味は当時の南部藩の制度によるものなのか、その根拠や決まりについては不明である。
天和三年 癸亥(ミズノトイ・・・1683年の記録)
①「日光大地震成由(あったということである)」
この地震のことを調べてみた。「天和三年九月一日、日光大地震が発生した。町史(栃木県五十里町か)によるとマグニチュウド6.8とありますからかなりの大地震でした。
葛老山の一部と戸板山が崩壊し、男鹿川(利根川の支流)を堰止めてしまったのです。江戸から日光街道を、そして今市より会津西街道を北上すると距離にして五十里程(約200km)のところを街道もろとも突然遮断してしまつたのです。
五十里村(いかり村)という宿場は、直撃は受けなかったものの、男鹿川と湯西川、大塩沢などの流れが堰止められ、日ごとに水位が上がり、高台の三軒家を残してことごとく水没してしまいました。
五十里地蔵岩も埋没し、水辺は独鈷沢村中井原の曲がり角まで達したという記録があります。そのため、三衣村と川治、藤原、栗山地方との往来ができなくなり、代わって船便になつたそうですが、地蔵岩が暗礁となり、ときおり船が乗り上げて困難をきたしました。
このため、大勢の人馬、駕籠、などの通行が不能となり、会津、北越、山形、秋田地方の大名は江戸幕府への参勤交代に上下する通り道を上三衣村、尾頭峠の頂上より地蔵尾根伝いに塩原湯元温泉に降りて、それより赤川伝いに登り旧高原に至ったそうです。(中略)
公用道として軍事上や廻米輸送のために重要視してきた会津藩にとって、街道の途絶は大きな痛手でありました。
会津藩主の松平様は、家臣で五十里関所の筆頭役人、高木六左衛門に命じて、水抜き工事を行いました。莫大な金額を投じたのですが、100万tとも言われる巨岩に阻まれ、掘削工事は難航をきわめ、ついに完成することなしに予算を使い果たしてしまいました。
高木六左衛門はその責任を一身に負い、布坂山の頂上で切腹自殺したのです。」(「天和地震と五十里洪水」より)
平成20年の「岩手宮城内陸地震」に似ているのに気づいた。地震災害は繰り返し起こることに改めて驚く。
②「高花(高鼻か)という所、上川尻領であったが、この年から湯田領となった」(「下巾本」)
③山守(山林を管理する役人か)古瀬屋兵部。
④「天和四年はじめ、改元あり、貞享となる」
貞享元年 甲子(キノエネ・・・1684年の記録)
①「是より下段に入ル。暦御改」の1行が原文である。
「下段」は「ゲダン」と読む(広辞苑・日本国語大辞典)む。しかし「下段に入る」ということの意味が解らない。一説には仏教の語ではないか。また、当時の節気を表した暦の「下段」の節気に入ったということではないか。等々あるが、記録者ご自身が「これからは、一般の人々、つまり下々の話や、自分が感じたことなども記録する」と表明した文と解した。「下談」と同じ意味と考えた。お解りの方はぜひご教示願いたい。
②「暦御改」はこれまでの「宣名暦」(センメョウレキ)から「貞享暦」(ジョウキョウレキ)に代えたということである。
「宣明暦」は862年(貞観四年)に中国から輸入された暦である。この暦は800年以上も使用されててきたが、天文現象と暦の予報に大きな違い見られるようになった。
「貞享暦」は天文学者渋川春海によって造られた暦である。渋川は中国の元の「授時暦」、明の「大統暦」を参考にして考案したとされる。日本人の手による最初の暦として、1755年「宝暦暦」に代わるまで、70年間使用された。
新しい暦は、具体的にどのような手立てで、人々に伝えられたのだろうか。また、人々の反応はどんなものだったのか。等考えると興味尽きないものがある。
貞享二年 乙丑(キノトウシ・・・1685年の記録)
①「三月流星東南より西へ飛ぶ。中作」
一口に「流星」といっても、その輝きの強弱、流れるスピード、数など様々あると思うが、記録はただ一行だけである。
電気もガスもない当時の人々にとって、夜の星空は生活の大きな助け、支えになつていたのだと思う。天体、天候の記録が多いのはこのためではないかと思えてならない。
②「中作」作物の収穫高は中ぐらい、つまり、平年作であったということである。
貞享三年 丙寅(ヒノエトラ・・・1686年の記録)
①上左草の「与助」が、父親の「与十郎」に確かめた。「私たちの家族か、秋田の仙北から移り住んで何年になるのですか」
父親は「ここに移り住んだのは、万治三年庚子(1660年)であった。これまで二十九年経った。移り住んだばかりの時は、家は一軒もなかった。今は十四軒になった。」と答えた。
ここで、明確になったのは、上左草村は1660年に与十郎一家が移り住んでから始まったということである。
貞享四年 丙卯(ヒノトウ・・・1687年の記録)
①江戸浅草観音開帳。
開帳は、厨子の中にあった秘仏を一般大衆に公開することである。浅草観音様に沢内通りから誰かが参観されたのか。伝え聞きなのかは不明である。
②年号が変わって「元禄」となつた。
③御代官、岩泉惣右エ門・帷子長兵衛(「下巾本」のみに記録されている。)
この年将軍綱吉は、「生類憐みの令」を発布しているが、「沢内年代記」の記録にはない。