古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の歴史は、まだ未解明な部分が多い。ひとつには戦前・戦中の古代朝鮮史の研究が日本人研究者の手に委ねられ、一定の水準を保ちながら、それ以上のものになり得なかった事情がある。
さらには戦後の朝鮮半島が三八度線によって南北に分断され、壁画古墳の発見が戦前とは比較にならないほど進展しながら、統一した歴史解釈に差があることも影響している。たとえば古代朝鮮で最初の統一王朝を為したのは新羅というのが日本や韓国の歴史学会の認識であろう。
しかし北朝鮮では「新羅は百済、高句麗を滅ぼした後も、三韓を統一して、ひとつの主権国家を建設する”主体性”に欠け、その実力もなかった」ということになる。金正日総書記は自力で三国の統一を望み、努力した国は高句麗だけだと主張する。新羅による統一の否定である。
史料が乏しい古代史に歴史認識がからむと、ややっこしいことになる。その点では神話の世界には政治的な思惑が入り込む余地がない。
新羅の建国は紀元前57年と中国の史書・「三国史記」や「三国遺事」には記録されている。朝鮮半島の南東部、今の慶尚北道と慶尚南道のあたりで、「三国史記」の新羅本紀は「斯蘆(しろ)国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史があるとしている。
斯蘆時代の建国神話は、日本の神話とよく似ている。「天神が降臨してきて、后は水神の娘」・・・農耕民族に相応しい太陽と水を崇める古代神話である。日本神話と異なる点は、天神が神聖な器である”卵”に入って降臨する。
「梁書」新羅伝には「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。この点は建国神話の中に「古くから六村があって、それぞれの村に聖地や聖山があった」という伝承と一致している。
辰韓(しんかん)とは、紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃れた秦人が多く、秦韓とも言った。つまり新羅は建国以来、支那との繋がりがあったことになる。
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。
それでは高句麗の建国神話はどうであろうか。
北朝鮮を訪れた人は高句麗の東明王陵の壮大な碑や立派な記念館に驚く。金日成主席が東明王を崇拝し、高句麗を高く評価していた。北朝鮮人民軍はロシア軍部の支援で建軍されたが、その兵制は高句麗のものを取り入れた。高句麗は男女皆兵の制度をとったアジアでも珍しい国家だったが、北朝鮮も女子の戦力化に力を入れている。
高句麗は朝鮮半島の北半部と中国の旧満州を領土とした大帝国で、朝鮮の歴史上、中国を脅かした唯一の国である。この高句麗は北にあった扶余国の王族が南下して建国したと伝えられている。
東明聖王(とうめいせいおう=紀元前58年 – 紀元前19年)は、高句麗の初代国王(在位:紀元前37年 – 紀元前19年)、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)。扶余国の金蛙王(きんあおう)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(チョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国したと伝えられている。
高句麗の建国神話は「三国史記」に出ているが、扶余の建国神話や百済の始祖神話と共通するものがある。
ウイキペデイアで高句麗の建国神話を見てみる。
<<朱蒙は河伯(ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそうヘ・モス)が孕ませて出来た子と言う。父の怒りを買って扶余王の金蛙の所へ送られた柳花を金蛙王が屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。
金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。
金蛙王の7人の王子たちとの対立=朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であったために7人の王子に睨まれた。
朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。
王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。
母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせることを決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。
亡命と建国=朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹淲水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。
そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢の孝元帝の建昭2年(西暦紀元前37年)、新羅祖の赫居世21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山)東南の?人(ヘンイン)国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。
王位の継承=紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。
建国の年=『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏の金富軾が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。>>
かなり詳しく記述したが、扶余国と高句麗の関係をみるうえで必要である。
さて、中国の「後漢書」夫余伝に扶余の建国神話がでている。
<<昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。
王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。
そこで東明は南方へ逃走し、掩淲水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。>>
扶余族は中国史料によれば、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されている。高句麗の北方で吉林地方の以北に住んだ高句麗と同族なのであろう。建国神話がそっくりなのは、その証拠となる。
さて百済だが、その建国神話は扶余とつながりを示している。始祖・温祚(おんそ)王は高句麗の始祖・朱蒙の子だったが、朱蒙の長子・解明が扶余から高句麗に来たので、漢江西岸に移り、百済を建国したという。
朝鮮半島の南東部、現在の全羅北道と全羅南道である。このことは扶余に発した高句麗、百済が広い意味で同族だということになり、血脈で中国に近い新羅系と異なるという見方が生まれている。慶尚道生まれの朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領、長女のハンナラ党元代表・朴槿恵氏は新羅系。全羅道生まれの金大中元大統領は百済系である。
この高句麗と百済は、中国の唐と結んだ新羅によって滅ぼされた。660年百済が滅び、668年に高句麗は滅亡している。その唐も907年に滅び、935年に新羅を滅ぼして高麗が朝鮮半島の統一を成し遂げている。高麗の太祖は王建、後高句麗の将軍だったというが、2007年に中国の研究員から朝鮮に移住した漢人の末裔という新説が出されている。