獄中のホドルコフスキー、釈放求めハンガー・ストライキへ。不正蓄財、脱税、不法送金などプーチンがでっち上げた冤罪。
かつてロシア新興財閥の象徴にしてロシア第二の財閥だったミハイル・ホドルコフスキー(元「ユコス」社長)は03年に突如逮捕されて以来、まだ獄中にある。
「刑期は終わったのに、新法による新しい裁判が待っている。かれは不正な手段でカネを儲けたのだ」とする権力側は、どうしてもホドルコフスキーを社会復帰させない決意を固めている。
クレムリンが恐れるのは、ホドルコフスキーを潜在的に支持するロシア国民が相当数いること、彼は稼いだ資金を惜しみなく野党や政権批判のマスコミに投じ、プーチンの独裁を根底から揺らしたからだ。
プーチンはこの男を目の敵として、旧KGBを駆使し脱税、不正蓄財の「証拠」なるものを集め、いきなり逮捕した。ホドルコフスキーが経営していた「ユコス」を解体し、「ロフネフツ」という会社が買収した。
それまで「ロフネフツ」という会社は実態のない幽霊会社に近かったが、ロシア第二位の企業だったユコスを事実上、乗っ取って資源開発、原油精製、運搬、小売りなどに進出し、いまや欧米株式市場にも上場する巨人企業に成長した。 つまり、この企業はプーチン株式会社である。
ホドルコフスキー逮捕、長期拘留はプーチンに逆らった政治勢力への「見せしめ」である。刑期が終わっても別の裁判、プーチン政権が続く間、獄中にある。こういう遣り方は全体主義システム特有のもので、中国でも普遍的だ。
ホドルコフスキーは決然とハンガー・ストライキに突入した。
▲暗黒に光、新しいイコン
ホドルコフスキーへの「懲罰」的措置にふるえたロシアの他の財閥は、すでに海外へ逃げるか、メドベージェフにおべんちゃらを言って政権に擦り寄るか、非政治立場に埋没するか、した。
アブラモウィッツはロンドンへ逃亡し、サッカーチームを買収した。デスパリカはプーチンに擦り寄り、外交政策に沿った海外進出に精を出し、反プーチンの象徴は、いまや獄中のホドルコフスキーだけとなった。そして獄中にあればあるほど、嘗てのマンデラのように、神話的存在になってゆくだろう。
中国民主党の王丙章博士が中国の獄中にあって「無期懲役」のように。いま王博士は欧米で「中国のマンデラ」と評価されはじめ、ワシントンや香港では「オバマ政権は釈放要求を中国へ」というデモが展開されている。
王丹もウルカイシも柴玲も魏京生も海外へでたなかにあって、中国国内の獄中にあるのは、反政府の象徴、英雄となる。ロシアはプーチン独裁が強まれば強まるほどに、新しいイコンが誕生する趨勢となった。
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黄文雄『森から生まれた日本の文明』の書評=南船北馬の伝統がいまも深く根付く中国の歴史体質と日本の対比が鮮やか。文明の単位として中国国内の血族、宗族、部族ならびに地域対立の興亡を活写。
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歴史家の黄文雄さんの最新作は和製アーノルド・トインビー風である。文明の単位として中国の興亡を語り、日本のそれと比較する。浩瀚な本書を一気に読ませる。
それにしても最近、近代史を論じた全三冊の新刊を徳間書店から出されたばかりなのに、別の切り口で文明史としての中国歴史論考を書かれる。その執筆量は、すでに徳富蘇峰翁を超えたのではないだろうか?
黄文雄さんは、どうやって執筆時間を作るのだろう、とかねてより七不思議のひとつ。口述筆記でもなく、パソコンをお使いでもないのに?
一緒に旅行しても、大きなバッグから膨大な資料を取り出して精読している。当方はビールを飲んでいる。茨城の自宅から毎度、東京へ汽車に乗って現れ、飲み会はなるべく避けて、ひたすら読書と執筆に没頭するとはいえ、これだけの大書、小生なら執筆にどうしても二年はかかる。いったい、黄さんは、いつ寝ているのだろうか。いや含蓄がまだまだ頭脳の中におありなのだろうか。
とそんなことより、本書の中味。
「日本の万世一系はなぜ生まれ、なぜ中国の易姓革命と異なるのか」として黄さんは、四季ゆたかな日本の気象条件をあげ、流民が出現しない、温暖な気候のもと、飢饉も干魃もすくなく台風だけが自然災害とすれば、日本人は自然と共生できる要素が大きい、とされる。
その温暖な気候が、たぐい稀な中庸の精神、穏健な日本人気質を生んだ。
中国は全くの正反対だ。
歴代皇帝208人中、じつにじつに三分の一の63人皇帝が暗殺、毒殺、処刑、反乱やクーデター、戦争などで戦死している。荒っぽさも人生観も日本人と百八十度ちがうのは当然である。
「易姓革命」も正確には異民族支配が多いから「易族革命だと黄さんは言う。随唐元清も明らかなに漢族いがいの王朝である。
自然の条件、地政学的地理条件が異なり、国境という概念が希薄な歴史観をもつのも、日本人からみれば異質だが、ユーラシアの歴史からみれば不思議でもなんでもないことが分かる。
他方、本書では上海人と広東人がなぜ仲が悪いか、歴史を遡り、「南船北馬」の時代からの激流の歴史をざっと振り返る。圧倒的に面白い箇所でもある。
評者は地方によって中国人の特質はまったく違うし、上海人は広東人と食堂でも絶対に同じテーブルに着かない等々、目撃談を綴った『出身地で分かる中国人』(PHP新書)も書いているが、本書で具体的なデータをあげての南船北馬の実態を知ったのは初めてだった。
十数年前、福州だったかで、日本語をかなり流暢に喋る中国人が、通りすがりの行儀の悪い団体をみて、「あ、この人たちは『北の人』だ」といったのを、なぜか不思議に覚えている。なぜなら今だに中国では南北対立が残存し、鮮明な対立差別軋轢摩擦を生んでいるのである。
そもそも古い話になるが、項羽と劉邦の闘いは北人と南人の闘いであり、「項羽が天下を取ったあと中原を放棄して南へ帰ったのは政治経済の動機ではなく、むしろ郷土意識」(112p)。
この戦争は「北方の秦人漢族vs楚人越人のたたかい」だったと黄氏は指摘する。
秦・漢は北方王朝で、この間は南方の人間は弾圧され高い官職につけた南人は少数であった。「江南地方は(北方の)漢族の植民地だった」。しかしその秦・漢も鮮卑、匈奴等の侵入があると南方へ逃げ込み、亡命政権を江南に構築する一方で、南人らを弾圧・圧迫した。
「北人政権である随唐の時代には、南人の政治勢力は敵視され、唐の宰相370人のうち、南人は39人」(113p)。
だから「太祖・超匡胤は『南人は宰相として使わない』と言明した」(中略) 「王安石の政治改革をめぐる闘争は南北対立のピーク」であり、「新党の殆どは南人、逆に反対党は北人」であり「南人が唱える政治改革とは北人から政治経済的な既得権益を奪うことを意味していた」(116p)。
明代でも南人への差別は濃厚に残り、「中華民国の北洋軍閥vs南方革命派の対立も、北人が華北で自治政府を作り、日本軍の中国進出に協力した、南北対立という伝統が尾を引いていた」。
そして南人が政治進出するとともに、次には呉越という南人同士の戦争が繰り広げられ、これが上海vs広東の軋轢として、今日まで尾を引くのである。なぜなら中国人は「過去のことを見ずに流すという思想をもたない」(117p)からである。
もうひとつ、日本が脅威視する「中華思想」だが、中国人はこの概念を知らないという事実も指摘されている。興味深い歴史知識満載。面白い上に、エキサイティングである。