■1591年(天正19)
*南部藩の内紛「九戸政実の乱」起こる。二十六代南部藩主の南部信直は、豊臣秀吉の十万の軍勢の助けを借りて九戸城五千の守備軍を攻め、九戸政実一族を滅ぼす
■1601年(慶長6)
*和賀之郷を370年間支配した鎌倉ご家人の和賀氏が、秀吉に従わなかったため滅亡。一族の子孫は土着し、沢内村にもその流れが残った
■1625年(寛永2)
*古澤家の菩提寺となる曹洞宗・一点山玉泉寺が沢内村太田に開山
*助右衛門が湯田村左草を開く
■1671年(寛文11)
*南部藩が岩手郡雫石・沢内地内の検地を実施
■1672年(寛文12)
*沢内通(どおり)代官が単独で任命された。しかし沢内・新町郷に代官所が置かれた確証はない。新町郷(新町村ともいう)の戸数は53
■1673年(寛文13)
*この年から1868年(慶応4)までの195年間に,盛岡藩は沢内に169人を追放している。江戸時代,沢内は盛岡藩の遠追放の地だった(藩刑法典「文化律」)
■1681年(天和1)
*沢内通りに酒屋一軒(公儀書上げ)
■1682年(天和2)
*検地が終わり、雫石代官所から初めて代官が沢内村を訪れる(沢内年代記)この記述から見ると代官所はまだ沢内村に作られていない
■1689年(元禄2)
*元禄の飢饉が始まる。~1696年(元禄9)
■1700年(元禄13)
◇このころ、沢内古澤氏の初代と目される善兵衛が、隣村の雫石村から沢内新町郷に移村してきた。菩提寺の玉泉寺過去帳から転写した「古澤家過去帳」によれば、善兵衛は雫石生まれ,生年不詳,屋号“ぜんべい”戒名は玄質道了信士
◇雫石村の古澤氏は絶家となっていて現存していない。後年、雫石村に古澤屋理右衛門義重なる人物が実在し、墓碑が曹洞宗・広養寺に残っている。沢内古澤屋の家紋は「丸に蔦」、分家・一族は「丸に鬼蔦」を使ったが、雫石古澤屋は「相香」の家紋を使用
■1706年(宝永3)
◎松平忠周(ただちか)が兵庫の出石(いずし)から信州上田に移封される。古澤家9代目玉次郎(古澤元)の妻となる木村真喜の祖先はその家臣で,扶持は百五十石
■1716年(正徳6)
*沢内の石高が三千七百三十九石となる。沢内甚句では“沢内三千石お米の出どこ 枡ではからねで箕ではかる”と歌われている
■1731年(享保16)
*新町で火災が発生し,13軒が類焼
■1734年(享保19)
*沢内村の泉沢・長瀬野の新田堰工事が始まる
■1735年(享保20)
*この頃までに沢内代官所が新町地内に設置されたと思われる。代官の任命は、寛文年間に行われているが、下役、物書などを任命した文書が認めらていない。寛保の新町大火では明らかに代官所が焼け落ちたので、代官所の存在が確認できる。享保20年は盛岡藩内の代官所区域を整理、25代官所を設置した年。さらに35年以上の歳月をかける泉沢・長瀬野の新田大工事が始まっている。盛岡藩にとっても沢内通代官所を沢内村に設置する必要性があった
■1744年(寛保4)
*新町で大火が発生,代官所が焼け落ち26軒が類焼
■1748年(延享5)
◇この年の墓碑が古澤家の最古の墓碑として確認されている。墓碑の年代だけが確認されたが、戒名などは風雪に洗われて読みとれない。初代古澤屋善兵衛が過去帳で「雫石生まれ」とあるので、その父母のものとも推定され、この人物が沢内・古澤氏の開祖なのかもしれない
■1748年(寛延1)
*雫石町に曹洞宗・広養寺が盛岡から移転
■1763年(宝暦13)
*沢内に8年間流されていた高橋子績が『沢内風土記』を著す
■1764年(宝暦14)
*常陸国の浪士・古澤清右衛門の末裔である古澤清左衛門長作が沢内代官として正月に着任、安永3年(1774)に南部藩御勘定頭となり、後任は中嶋才兵衛
■1767年(明和4)
*沢内大地震(『沢内年代記』より)
■1769年(明和6)
*このころ沢内で馬小作の制度を採用
■1770年(明和7)
◇8月8日、宮古代官所から追放処分を受けた罪人一人を新町の善兵衛が預かる
*日本全国でオーロラを観測(『想山著聞奇集』より)。沢内村では「沢内年代記」の「下巾本」で「喜三太の詮議」の項目に「七月二十八日夜、子の刻よりはじめて空の色赤くなる。雲やけの如し」の記述が残った
■1771年(明和8)
*泉沢・長瀬野の新田成り、検地
■1772年(明和9・安永1)
*沢内大地震で山崩れ(『雫石町史』より)
■1773年(安永2)
◇4月3日、古澤家初代の善兵衛が死去。戒名は玄質道了信士。過去帳に現れた最初の人物。雫石生まれとある
■1774年(安永3)
*沢内代官・古澤清左衛門長作が離任、南部藩御勘定頭となる
■1776年(安永5)
◇9月13日、宮古代官所から預かった罪人が逃亡、2代目善兵衛から沢内代官所に届け出。盛岡藩雑書には「九月十三日、宮古御代官所金浜村安立、明和七年寅八月八日沢内へ御追放被仰付、新町善兵衛と申者へ罷有候処、当八月二十日より相見得不申候付色々相尋候得共、行衛相知不申欠落候由」とある。この文書は沢内・古澤氏が預かった罪人が逃亡(欠落)したことを述べている
■1779年(安永8)
◇1月22日、古澤家2代目の善兵衛が死去。戒名は東林旭光禅定門。禅定門あるいは禅定尼の戒名は信士・信女よりも格が下がる。罪人逃亡のことが響き、謹慎蟄居のうちに死去したのかもしれない。信士・信女あるいは禅定門・禅定尼は一般の檀徒に与えられる戒名。さらに菩提寺にとって重要な役割を果たした檀徒には居士・大姉などの戒名が贈られた
■1781年(天明1)
*沢内村不作
■1782年(天明2)
◇古澤家4代目の善蔵が生まれる。中興の祖と目される善蔵の時代になって屋号を「ぜんべえ」から「古澤屋」に改めた。古澤清左衛門長作には2男子あり、長子・庄左衛門忠助は文化元年(1804)に江戸で不始末があって出奔、次子・吉左衛門は古澤善右衛門の養子になっている。善蔵が古澤清左衛門長作の子である確証がないが、初めて信女の戒名を得た秋月妙光信女との間に出来た子という可能性がある
*沢内村不作。天明の飢饉が始まる
■1783年(天明3)
*浅間山が大噴火し,死者2000人。噴煙は関東一円を覆って太陽光線を遮った。冷害のため特に奥羽地方は大凶作に見舞われ,飢饉が深刻化
■1784年(天明4)
*奥州大飢饉,餓死者10万人にのぼる
◇12月16日 雫石町の古澤屋理右衛門義重の父と母が死去。墓地は雫石町・広養寺にあり、戒名は父が「政關禅定門」母が「浄性禅定女」。なお古澤清左衛門長作の父は古澤理右衛門長九郎、南部行信公の時に玉置流の手跡もって召出されている
■1786年(天明6)
◇2月26日、古澤家初代善兵衛の妻と推定される梅顔妙香禅尼が死去
*玉泉寺の中興の祖と目される第十二世獅山大哮大和尚が入寂
*佐々木退休が出羽国大森村筏から湯田村左草に移る
■1789年(寛政1)
◇雫石町の古澤屋理右衛門義重が寺子屋を開く
■1790年(寛政2)
◇9月29日、古澤家の菊寿禅定尼が死去。この女性か,1796年没の普歓禅定尼のどちらかが2代善兵衛の妻
◇このころ3代善兵衛次男の善助が生まれる。のちに古澤一族で最初の分家となり,屋号を“ぜんすけ”(後に「まさえもん」と改める)と称した。善助は1855年(安政2)に御境・御山古人となる
■1796年(寛政8)
◇雫石町の古澤屋理右衛門義重が「南部根元記」を写本。(岩持忠兵衛家所蔵)
◇11月1日、古澤家の普歓禅定尼が死去
■1797年(寛政9)
◇雫石町の古澤屋理右衛門義重が「岩持忠兵衛家本」を写本。この写本は二百七十三年間の記録だが、裏表紙に「寛政九丁巳歳六月初旬写之、雫石町理右衛門義重」とある。古澤屋理右衛門義重の写本は、南部根元記、九戸軍記、雫石の万用歳代記など多岐にわたり、門弟もかかえていた
■1808年(文化5)
◇9月23日、古澤家の秋月妙光信女が死去。「禅定女」の戒名から格があがって、「信女」になっている
■1809年(文化6)
◇10月17日、古澤家の延歓保寿信女が死去
■1810年(文化7)
◇雫石町の古澤屋理右衛門義重が「九戸軍記」を写本。奥書に「滴石町古澤屋理右衛門、門弟兵助主」とある。門弟の奥書ということは、写本の途中で古澤理右衛門が死亡したため、門弟が引き継いだとも考えられる(末永久右衛門家所蔵)
■1811年(文化8)
◇10月6日、雫石町の古澤屋理右衛門義重の墓が門弟兵助ら一同によって広養寺に建立された。戒名は「学道良休信士」。これに並んで「惹忍(一字判読できない)性信女}の名があるが、妻のものと思われる。夫婦には子がなかったようで、これにより雫石の古澤屋は絶家。現在まで雫石には古澤姓は一軒も存在していない
■1813年(文化10)
◇8月3日、古澤家5代目の善治が生まれる。4代善蔵31歳の長男
■1814年(文化11)
◇高橋仁右ヱ門家文書中,新町村借主5人のなかに“善兵衛”の名がみえる(『沢内村史』上巻1468頁)
■1817年(文化14)
◇クマ(のちの善治の妻)生まれる。湯田村の旧家・佐々木市右ヱ門の伯母
◇“沢内通馬肝入”善兵衛の名が古文書にみえる(『沢内村史』上巻631頁)
“肝入”は代官所から任命される村役で,村の百姓のなかから有力な物識り・老人を採用した
◇沢内通馬肝入善兵衛の古文書(『沢内村史』上巻634頁)
◇沢内通馬肝入善兵衛の古文書(『沢内村史』上巻637頁)
◇沢内馬喰からの願状善兵衛請けの古文書(『沢内村史』上巻629頁)
■1821年(文政4)
*新町大火,14軒が類焼
■1822年(文政5)
*沢内代官排斥一揆が発生
■1823年(文政6)7月3日
◇古澤家の観相自念禅男が死去。3代善兵衛の子か
*湯田村左草の佐々木退休が死去。8月14日。退休は「沢内年代記」左草本の筆者といわれる
■1833年(天保4)
*沢内大飢饉,犬猫を食う
■1834年(天保5)
◇10月25日、古澤家の了心妙信女死去。3代善兵衛の妻か
■1835年(天保6)
◇2月7日、沢内村初代村長・為田文太郎の父安太が誕生、父は治太郎
◇沢内通馬肝入善兵衛の古文書(『沢内村史』上巻637頁)
*天保の飢饉が続く。収穫皆無となる
■1836年(天保7)
*沢内大飢饉
■1837年(天保8)
◇新町郷の御用金一覧に“善兵ヱ二十両”と記載がある(『沢内村史』上巻499頁)
◇沢内通の御用金20両新町郷善兵ヱの古文書(『沢内村史』上巻1270頁)
*沢内凶作
◇10月10日、古澤元の曾祖父で古澤家6代目になる勇治が生まれる。猿橋村の“沢内学者”久保代吉の次男
■1838年(天保9)
*藤田東湖が水戸藩の藩校弘道館を建学
■1840年(天保11)
*阿片戦争が起こる
■1841年(天保12)
◇5代目善治の一人娘ムラ(のち勇治を婿養子に迎える)が生まれる
◇3月20日、トメ(勇治の後妻)生まれる。大野村の旧家・高橋清左衛門の妹
■1849年(嘉永2)
◇7月1日、古澤家3代目の善兵衛が死去,戒名は善心了喜信士
■1851年(嘉永4)
◇2月8日、古澤元の祖父で古澤家7代目の善五郎が生まれる。戸籍上は分家古澤善助の次男となっているが,年齢からみて,善助長男乙松の長男という説がある
■1853年(嘉永6)
◇8月9日、善蔵三男の仁蔵が生まれる。のちに新町の川村権太家に養子、離縁後、新町の有馬三平・長女やえの婿養子
*6月(新暦7月),アメリカのペリーが東インド艦隊を率いて浦賀に来航し,幕府に開国を要求
*ロシアのプチャーチンが長崎に来航
■1854年(嘉永7・安政1)
*ペリー艦隊が江戸湾に来航し,横浜で日米和親条約を締結
■1855年(安政2)
◇1月25日、善蔵の弟・善助が御境古人(盛岡藩覚書)
*2月(旧暦安政1年12月),日露和親条約を締結
◇『盛岡藩覚書』に“沢内通古人善蔵”として4代善兵衛の名が出る(『沢内村史』資料篇95頁)。“古人”は代官所の職制に属する末端役職で,藩から手当が支給された。郷士か,これに準ずる者が登用された
◇5月、沢内通古人善蔵が御境古人となり、御山古人と兼務(盛岡藩覚書)
◇8月5日、善蔵の妻が死去、善覚妙仙大姉
*10月2日,安政の大地震で藤田東湖が圧死する。マグニチュード6.9,死者約4000人
■1857年(安政4)
◇4月23日、古澤元の曾祖父勇治と後妻トメの一人娘マサ(のち善五郎を婿養子に迎える)生まれる。古澤元の祖母。小説「続少年」のなかに“酉年生れ”とある(単行本『びしやもんだて夜話』p.284)が,戸籍では「安政四丁巳年」
◇『盛岡藩覚書』に“沢内御境古人善蔵”の記述がある(『沢内村史』上巻331頁)。“御境古人”は国境の案内人で,二人扶持が支給され帯刀が許された
■1858年(安政5)
*日露修好通商条約を締結
■1860年(万延1)
◇7月23日、沢内村初代村長になる為田文太郎が誕生、父安太
◇8月9日,古澤家4代の善蔵が死去,享年78,戒名は全久了喜居士
◇10月7日,5代目善治は善蔵のあとを継ぎ御境古人となる(『盛岡藩覚書』より)
◇『盛岡藩覚書』に“御境古人善治”の記述がある(『沢内村史』上巻339頁)
◇『盛岡藩覚書』に“善治二人扶持”の記述がある(『沢内村史』上巻423頁)
■1861年(文久1)
◇『盛岡藩覚書』に“御境・御山古人善蔵”の記述がある(『沢内村史』上巻682頁)。“御山古人”は山林の管理にあたり,盗伐などを監視した。御境古人と兼務することがあった
■1862年(文久2)
◎6月22日、信州上田の木村家3代目の義哉が誕生<
◇10月1日、古澤元の曾祖父勇治(25歳)の妻ムラ死去,享年21、戒名は寿山妙永清大姉
■1863年(文久3)
◇5代善治が菩提寺玉泉寺に現存する金打ち・漆塗りの山額を寄進(玉泉寺木札より)大額には古澤家の家紋「丸に蔦」が六カ所、裏書きは「古澤屋」
■1865年(慶応1)
*盛岡藩の藩校明義堂は藩教授那珂五郎通孝の献策により水戸の藩学弘道館をモデルに新たな学風を打ち立て,修文所と昭武所のふたつの学館からなる文武一致の作人館を創立
◇5月7日、為田文太郎の妻コトが誕生、稗貫郡黒川口村の鈴木仲正長女
■1866年(慶応2)*南部藩が岩手郡雫石地内の検地を実施。雫石地内では古澤家を名乗る者は一人も発見されない
■1867年(慶応3)
*新暦11月9日・旧暦10月14日,徳川15代将軍慶喜は政権を天皇に返上。いわゆる大政奉還
◎木村家3代目の義哉はときに6歳