■1926年(大15・昭1) 元20歳・真喜17歳
◇古澤元が盛岡中学を卒業。同期にのちの直木賞作家・森荘巳池、警視庁特高課長・伊藤猛虎がいる。弟の岸丈夫は肋膜で留年、そこで古津四郎(共同通信社記事審査室長)と同じクラス
◇3月、加藤新平(京大法学部教授)、佐々木吉男(沢内村助役)が新町小学校を卒業。親族の小田島房志(共同通信社政治部長)は新町小学校を卒業して日本大学に進学
■1927年(昭2) 元21歳・真喜18歳
◇古澤元は1年浪人し,仙台の第二高等学校(現・東北大学)文科乙類に2番で合格。文科甲類のトップは永山公明(共同通信社専務理事)、盛岡中学の級友だった大橋初郎,病気で留年した大池唯雄(東北で初の直木賞作家)らとともに文芸同人誌『そぼうらん』ついで『シグナル』を創刊する一方,社会科学研究会に所属して左翼運動にのめり込む。文科乙類で同級だった八幡次郎(朝日新聞政治部長、九州朝日放送会長)とは二高の門前にあったミルクホールの常連だったという
*金融恐慌が始まる
◎4月3日,木村真喜が渋谷の実践女子専門学校予科に合格
◎4月7日,真喜の母静司が長野県上田の自宅で死去,享年41。真喜は“読経のありがたきとも思へねば/縁にはなれて母を偲びぬ”と上田高等女学校時代から親しんできた短歌に思いを託した
◎4月14日,真喜が上京し,目白台の結城家(仮名/実名村田家)に寄宿。結城家は祖父木村義哉の縁戚で,老夫婦と婚期を過ぎた3女,旧制高校文科生で真喜より1歳上の長男紀(のり,仮名)がいた。紀は後の東北大学文学部(美学)教授の村田潔(真喜の小説「碧き湖は彼方」より)
*6月9日,日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)が分裂
*6月19日,日本プロレタリア芸術連盟を脱退した青野季吉・蔵原惟人らが労農芸術家連盟(労芸)を結成,『文芸戦線』を機関誌とする
*7月,プロ芸は機関誌『プロレタリア芸術』を創刊(~1928年4月)
*7月24日,芥川龍之介が自殺
◎夏,真喜はレポート作成のためにといって千曲川べりの上山田温泉に10日間逗留。実父山崎由信の縁戚筋の旅館があった。それを知った山崎の祖母が迎えの車を寄こして初対面した。木村家を去って京都で病死した父由信の墓に詣でる
■1928年(昭3) 元22歳・真喜19歳
*3月15日,いわゆる3・15事件が起こる。1道3府20県にわたり共産党員など約1600人が一斉に検挙・弾圧された。小林多喜二「一九二八年三月十五日」は,この事件を扱っている
*3月25日,共産党支持のプロ芸・前芸が合同,全日本無産者芸術連盟(通称=ナップ)成立。以後,ナップと労芸との並立抗争が続く
◎4月,真喜は実践女子専門学校の本科(英文科)に進級
*5月,ナップは機関誌『戦旗』を創刊(~1931年12月,41冊,戦旗社,初代編集長は佐藤武夫)
◇秋,古澤元は東北学連のオルグ活動で治安維持法に触れて検挙・留置され,仙台二高を放校される。妻の真喜は後年,古澤元が“二高独文三年【?――吉田】で中途退学”になったのは“学生運動のリーダーであったことが原因であったが、もう一つ,仙台市内の喫茶店のマダムと恋愛関係をおこし,人妻であったその相手は彼のために自殺未遂をひきおこし,新聞沙汰になった”ことも放校の理由になったと自伝小説『碧き湖は彼方』(三信図書,p.82)に書いている。二高で同級だった八幡次郎(朝日新聞政治部長、九州朝日放送会長)も同様の証言。
*11月10日,昭和天皇の即位式
*11月,小林多喜二が「一九二八年三月十五日」を『戦旗』に発表(~12月)
◇12月11日,古澤元は満21歳に
*12月25日,ナップは専門部を独立させ,日本プロレタリア作家同盟(略称=ナルプ,作家同盟とも)その他の各同盟が成立。全日本無産者芸術連盟は,その協議体としての全日本無産者芸術団体協議会(通称=ナップのまま)に改組
■1929年(昭4) 元23歳・真喜20歳
◎2月末,真喜は目白の結城家を出て神田美土代町の又従姉妹木村泰子の下宿に同宿,木村泰子は後の岸丈夫夫人、漫画家・杉浦幸雄夫人の富子の姉
◇3月,古澤元は仙台で回覧誌『MARIONNETTE』を発行し,秦巳三雄の筆名で沢内を題材にした短篇「秋」を発表。この作品は,のち「馬を売る日」の題で二度改作され,それぞれ発表している
*3月5日,旧労働農民党の代議士山本宣治が神田表神保町の旅館光栄館で七正義団の黒田保久二に刺殺される
*4月16日,いわゆる4・16事件が発生。1道3府16県にわたり共産党員などが一斉に検挙され,339人が起訴された
*5月,『戦旗』の別冊付録として『少年戦旗』が創刊される
◇このころ,古澤元は文学活動より非合法政治活動に注力し,特高警察の尾行を受け,しばしば留置された
*10月,『少年戦旗』が『戦旗』別冊付録から独立した雑誌となる
◇12月11日,古澤元は満22歳に
■1930年(昭5) 元24歳・真喜21歳
◇古澤元は上京して戦旗社に入り,『少年戦旗』の編集責任者となる
◇1月,秦巳三雄のペンネームでルポルタージュ「高知の漁民騒動」を『戦旗』1月号に発表
*2月26日,全国にわたって共産党員の一斉検挙が始まる。~7月
◇3月,秦巳三雄「残された前衛の家族はどうしているか」を『戦旗』3月号に発表
◇このころ,『戦旗』に林熊王が参加,古澤元は交友を結ぶ。林熊王はのちの漫才作者秋田実で,関西漫才界の草分け,吉本興業の今日を築いた男と言われる。当時,本郷追分の停留所近くにあって帝大の文学青年たちの溜まり場になっていた長栄館という軒の傾いた古い学生下宿にいた。日本共産党系の日本金属労組をオルグ担当する一方,帝大系の同人誌『集団』に席をおく文学青年だった
◎4月,真喜は実践女子専門学校英文科3年に進級し,社会科学研究会に所属
■1931年(昭6) 元25歳・真喜22歳
◎1月,真喜は社会科学研究会の仲間を下宿に匿って渋谷署の私服に連行されるが,夜には保釈
◎2月?,真喜は朝日新聞社の調査部に勤める縁戚を介して左翼系の出版社内外社に就職が決まる
◇◎2月?,古澤元は『戦旗』掲載の翻訳を手伝ってもらうため,知人に真喜を紹介されて会う。こののち古澤元は29日間勾留される
◎3月,真喜は実践女子専門学校を卒業し,内外社に勤める
◇3月,陸軍の桜会の三月事件が未然に発覚
◇◎4月,ある土曜日に真喜は仲間内の食事会に招待されて古澤元の住まいを訪ねる。西武池袋線の東長崎駅から歩いて12~13分ほど。生け垣に囲まれた小さな家で,弟行夫のペンネーム岸丈夫の表札が出ていた
◎このころ,真喜は古澤元の指示で恵比寿の伊達跡に引っ越す。実際活動の定期的なレポの役割も課せられていた
◎このころ,真喜は作家志望の親友古賀律子に,その文学上の師で愛人の小林多喜二に引き合わされる
◇◎5月中旬,古澤元,木村真喜と結婚、”アカ”との結婚に上田の木村家からは猛反対を受ける
◇6月下旬,古澤元・真喜と弟岸丈夫は大田区蒲田の新宿に借家
◇6月末,真喜は度重なる故郷からの帰宅の催促に抗しかねて一泊の帰郷
◇7月?,自宅を特高に踏み込まれ古澤元が連行されるが,翌日釈放
◇真喜は内外社を辞職
◇初夏ころ,古澤元は『戦旗』の編集を辞め,林熊王を通じて同人誌『集団』に加わる。同人で大森に住んでいた高見順・愛子夫妻や那珂孝平らが蒲田の古澤元・真喜宅を頻繁に訪ね交友を結ぶ
◇8月初め,結城紀(東北大学教授・村田潔)が蒲田の自宅に真喜を訪ね,元の嫉妬をかう
◇8月末,妊娠4ヶ月の真喜は古澤元とともに上田に帰郷
◇9月,真喜は実家から頼みの綱の送金を止められる
◇このころから古澤元は『アサヒグラフ』に作品を発表。朝日新聞社調査部に勤めていた遠縁に真喜が斡旋を依頼したが,同誌には元の盛岡中学の先輩宮田新八郎が編集長を務めていた。1936年(昭11)4月までに9篇の作品が確認されている。そのほか『改造』や婦人雑誌に作品を発表
◇秋,ナップは日本プロレタリア文化連盟(略称=コップ)に再編
*10月,桜会の十月事件が未然に発覚
*9月18日,満州事変が勃発
◇12月,『戦旗』廃刊
◇12月11日,古澤元は満24歳に
◇12月下旬,真喜が肋膜炎で倒れて急性腎臓炎を併発,友人の一存で上田に電報が打たれ祖父母が上京
■1932年(昭7) 元26歳・真喜23歳・襄1歳(数え年)
◇1月?,真喜の病状が落ち着くと祖父義哉の配慮で中央線大久保駅近くに喫茶店キリコを開業。2階の6畳ふた間に住む。キリコを手伝っていた木村泰子は元の弟行夫と結婚,さらに泰子の妹富子は行夫の漫画家仲間の杉浦幸雄と結婚することになる
☆2月25日,長男襄が生まれる。古澤家10代目。子煩悩の元は襄を“じょう”と呼んで可愛がった
*3月1日,満州国が建国を宣言
◇3月24日,コップへの大弾圧が始まる。6月末までに中野重治・蔵原惟人ら約400人を検挙,小林多喜二・宮本顕治らは地下へ潜る
◇古沢元、高見順らはこのころ左翼運動から離れる
*5月15日,いわゆる5・15事件が起こる。海軍青年将校が指導したクーデター事件で,陸軍士官候補生や愛郷塾生らも参加。首相官邸を襲って犬養毅首相を射殺し,政党政治に終止符を打った。犬養は“話せばわかる”と説得しようとしたが,暴漢は“問答無用”と言ってピストルを撃った
◇古澤元は1938年(昭13)9月に短篇小説「鴬宿へ」を発表した。祖父の遺骨を持って十数年ぶりに帰った郷里沢内から,二里ほど離れた山の湯(湯田温泉?)の旅館の女将になっている“和子”に会いにいき,殺されたはずの犬養毅と出会うという奇妙な体験を綴った作品。“確かに見憶えがあつた,特徴的な頬骨と四角な顔,切長な眼,もし美しく刈りこまれた髭にその風貌が整へられてゐるなら,さうだ凶弾の飛び来る一刻前まで愛用の胡蝶をふかしながら話せば判ると落突いてゐたあの首相を偲ばせる顔ではないか”と書いている。
◇弟の行夫は画家から漫画家となり,ペンネーム岸丈夫として近藤日出造・杉浦幸雄・横山隆一・加藤悦郎らとともに“新漫画派集団”を結成
*6月29日,警視庁に特別高等警察部の設置を公布。特別高等課の格上げ
◇9月21日,のちに襄と結婚する恵子が石塚与左衛門の次女として生まれる。北一輝の親族
■1933年(昭8) 元27歳・真喜24歳・襄2歳
◇1月,喫茶店キリコの経営に失敗した古澤元・真喜は大森の馬込に転居。弟の行夫は木村泰子との結婚を機会に別居
*1月,同人誌『集団』の仲間の高見順が自宅で治安維持法違反のかどで検挙される
*2月20日,小林多喜二が築地署で虐殺される。享年31
*2月27日,バーナード・ショウ来日。~3月9日
*3月,高見順が転向を誓って釈放される。その妻愛子は高見の許を去る
◇左翼への弾圧は厳しさを増し,古澤元は雑文さえ発表できなくなり家計が逼迫。真喜は乳飲み子の襄を連れて信州上田に一時引き取られる。以後,信州と東京を半年刻みに住み分けるような生活が2~3年つづく
*6月8日,共産党最高指導者の佐野学・鍋山貞親が獄中から「共同被告同志に告ぐる書」と題する転向声明書を発表。以後,転向者が続出する
◇9月,高見順・荒木巍・大谷藤子・渋川驍・那珂孝平らによって同人誌『日暦』が創刊される。旧作家同盟系の同人が多く,古澤元も同人となる
*9月21日、宮沢賢治死去
*10月,小林秀雄・林房雄らが『文学界』を創刊
◇11月,短篇小説「馬を売る日」を『アサヒグラフ』に発表
*改造社『文芸』創刊
◇12月11日,古澤元は満26歳(数えで27歳)に