■1912年(明45・大1) 元6歳・真喜3歳< ◎1月8日、木村由信と静司は協議離婚し,由信は旧姓・山崎に戻る ◎1月9日,真喜満2歳< *4月13日、石川啄木死去 *7月30日,明治天皇薨去,大正と改元 *9月13日,乃木希典と静子夫人は明治天皇大喪のこの日,目白の自邸で殉死 ◇11月3日,古澤元の父で古澤家8代目の行道が死去。享年32。戒名は凌霜院行山機道清居士。湯田で鉱山を経営していた行道は,鉱業資材を買い付けに馬で秋田県に向かったが,その途中,大金を狙った二人組に扼殺された。鉱山の争奪をめぐる犠牲とも言われる
■1913年(大2) 元7歳・真喜4歳
◇7代善五郎が菩提寺・玉泉寺の第19世啄禅道器と共同で「古澤家過去帳」を作成
■1914年(大3) 元8歳・真喜5歳
◇3月、古澤貞造(古澤吾一の弟)が新町小学校を卒業
■1917年(大6) 元11歳・真喜8歳
◎1月29日,木村静司が二度目の婿養子神津貫一を迎える
◇3月、古澤純二が新町小学校を卒業
*盛岡市の報恩寺で行われた“戊辰戦争殉難者五十年祭”で政友会総裁の原敬が“戊辰戦争は政見の異同のみ”と祭文を読み上げ,楢山佐渡の汚名をそそぐ
◎7月24日、木村貫一・静司の長男金一郎が生まれる。真喜の異父弟にあたる
■1918年(大7) 元12歳・真喜9歳
◇5月1日、古澤元の曾祖父で古澤家6代目の勇治が心臓麻痺で死去,享年81。戒名は岫参道雲清居士。1940年(昭15)10月に発表した自伝小説「少年」の“祖父”の項に,曾祖父は“二年前,彼は九十二歳で大往生した。”とある
◇12月14日、分家の古澤与吉・シケ長男巌が弘前連隊へ入隊した2週間後にスペイン風邪のため弘前陸軍病院で死去
■1920年(大9) 元14歳・真喜11歳
◇3月、古澤元が新町小学校を卒業、新町高等小学校に進学
■1921年(大10) 元15歳・真喜12歳
◇1月19日、古澤孝三が分家。元の弟行夫はその養子となる。孝三は後見人として古澤本家の総領・元の面倒をみることになった。ひとつ屋根の下に本家の曾祖父の6代勇治,祖父の7代善五郎と祖母,9代元に,分家の孝三・トヨ・行夫がともに住んだ。善五郎はむしろ孝三夫妻の後ろ盾となった。小作頭の仁五郎一家も同居していた。鷲之巣鉱山の事業に傾斜して農業を顧みない善五郎・孝三に不安を持ち,本家の跡取りである元を支えた。短篇小説「少年」の冒頭に“――私は五つのときに父を喪くした。六つの春,田舎の習慣にしたがつて,父の弟である人,つまり叔父が生母の夫となつた。嫉妬深い性(たち)であつたにちがひない私は,叔父をきらひ,いつか母をも憎むことを知つた。可愛げのない子であつたにちがひない。それでも私なりに考へがあつて,一寸の虫にも五分の魂のやうに,親の愛情を拒み,好んで孤独な道を歩んで来たのだ。”とある
◇古澤元は新町高等小学校1年から,弟行夫は新町尋常小学校5年から飛び級で,ともに旧制盛岡中学(現・盛岡一高)に入学。盛岡市内に行夫や友人とともに下宿する
■1922年(大11) 元16歳・真喜13歳
◎6月15日、木村貫一・静司に3男政三が生まれる
◇9月13日、善五郎の妻マサが死去。享年66歳。戒名は快光院普参妙良禅大姉
◇12月11日,古澤元は満15歳になる
*12月16日,横黒線(現・北上線)の陸中川尻駅が開業。“横黒”の名は秋田県横手駅と岩手県黒沢尻(現・北上市)駅にちなむ
■1923年(大12) 元17歳・真喜14歳
◎1月9日,真喜は満13歳になる
◇古澤家が倒産。父行道の横死後も経営をつづけていた製板工場や鉱山の事業が行き詰まり,家屋敷を残してすべてが人手に渡った。孝三・トヨ夫婦と祖父善五郎は上京
◇12月11日,古澤元は満16歳になる
■1924年(大13) 元18歳・真喜15歳
*10月,横光利一が「頭ならびに腹」を『文芸時代』創刊号に発表。冒頭の“真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された”が新感覚派の特色を示したものとして知られる
◇古澤元は1938年(昭13)9月に発表した短篇小説「鴬宿へ」のなかで,“花泉と云ふその小駅を,誰かの小説にあつた如く,小石の如くに黙殺して,通過するのだが,十数年前もここを通過するときは,きつと何故となしにこの文句を連想する習慣があつた。”と書いている
*この年,横黒線が全通。北上線と改称されたのは1966年(昭41)