■1944年(昭19) 元38歳・真喜35歳・襄13歳
◇1月,武田麟太郎がインドネシアから帰国
◇このころ,元は小説「議事堂」を『正統』に発表
◇1月,『正統』は1月号を以て廃刊
☆3月,襄は愛日国民学校を卒業
◇3月,古澤一家は6年間住んだ牛込払方町から,弟行夫一家の住む中野区都立家政へ転居。借家には畑があって大井上康(おおいのうえ・こう)の“大井上農法”と呼ばれる“栄養周期適期施肥論”の研究・実践に努め,沢内村にも普及に赴く
*6月19日,マリアナ沖海戦で日本海軍は空母・航空機の大半を失う
◇6月30日,中野区都立家政から穏田にある大日本赤誠会本部の中庭の平屋に転居。ここでも大井上農法の研究・実践に熱中した。元は「覚え書」に記した。“サイパン危うし! かくて,六月末日,南太平洋の備えいよいよ崩れたるをきき,急遽本部に引き移る。本部員が出征し,庶務に人手を失いたるにもよれど,自分の真意は更に深し。/君国に生を享けて三十八年,二十年の文学修業をここに再び中断し,一イデオロギストとしての生活に没頭せんとす。君国亡びてまた文学なし,の大義に生きんとす”
*7月7日,サイパン島守備隊29000人が玉砕
*7月18日,東条内閣が総辞職,サイパン玉砕の報道
◇7月20日,古澤元は兵役義務者の点呼を受けるため沢内村に帰郷
◇7月26日,古澤元は“救国国民体当り運動”の責任者となる
◇8月17日,橋本欣五郎が翼賛壮年団副団長兼中央本部長に就任。つづいて赤誠会幹部は翼賛壮年団本部に移る
◇9月4日,大日本赤誠会は解散し、橋本研究所となる
*10月24日,レイテ沖海戦で聯合艦隊は主力を失う
*10月25日,海軍の神風特攻隊が,レイテ沖ではじめてアメリカ軍艦に突入
◇12月8日早朝,真喜・襄母子は東京原宿の家を出て上田に疎開、襄は上田中学1年に転入学
◇12月9日,疎開の翌日に上田に初空襲、元の日記に「上田、焼夷弾落下、燈火管制悪シキタメナラン」とある
◇12月13日,元は日記「東京見聞記」をつけ始める。~応召の日まで
◇この年,真喜の異父弟金一郎が結婚
■1945年(昭20) 元39歳・真喜36歳・襄14歳
◇1月1日,古澤元は武田麟太郎家に年賀へ。日記に“今年は酉年なり。元旦は例の如く番町会におもむき,武田先生に年初めの挨拶をなす。今年も亦,番町を訪うものなく,二人して合成酒をのむ。夕方,来合せた倉光俊夫の苦言を聞く。有りがたき友なり。小説を書けと気遣いくれる者,倉光一人なり”と記す
◇1月12日,古澤元の日記“冬に入り日照りつづく。晴れた日も曇り日も,お濠の朝方を眺めつつ翼壮通い。宮仕いして月給もらっての身分を考え,ふと滑稽感を持つことしばしばなり。これも生涯のうちの想い出の一つとなるべし”
◇2月3日,上田の木村家に赴き,真喜・襄と会う。~5日
◇2月28日,古澤元に召集令状が来る。このとき真喜は上京していてその場に居合わせた
◇3月1日、元は水天宮に伯父・小川昌五(サントリー役員)を訪ね、当時として貴重品になったサントリーの黒二本を貰い受け、夕刻の送別会に差し入れ
◇3月2日朝,元は上田におもむき襄と会う。“三月二日夜。一切の事務より解放さる。時,午後二時なり。会長と快談すも,寂し気なり。報道班員とも別れて本部に戻る。途中にて髪を切る。/夕刻,池田源尚氏来る。武田先生亦訪ねられ,八時過ぎまで居られる。九時過ぎようやくすべてを終了。明日の出発を待つのみ。感,なにもなし”
*3月2日夜,池田源尚に召集令状
◇3月3日,古澤元は84枚の未完の小説「回天詩史」を残して応召。ときに数え39歳,満で37歳3ヶ月。真喜の日記“午前四時。元,出発す。同日昼,池田源尚氏来訪。二日夜,同氏にも召集令状が来ていたよし。”
◇3月3日 元は弘前に向かう車中から真喜に三日3通、四日3通の葉書を送った。宇都宮から「雨に崩れた降り抜けの朝あけ、暗い中に穏田の仮居より発った。求めて閑寂な門出をしたのではないが、仰山なことが嫌いな性質の自分は或いは無意識の中にこういう静かな門出を計算していたのかもしれない。上野を出るときから宇都宮までただ眠る。眼のあく力なきほど眠気強くとぎれとぎれに夢を見続ける。夜の明け放たれたのも知らず宇都宮駅に入った。しばらく停車である。その間に第一日のメモをとる」
◇3月3日, 郡山から「すでに郡山を過ぐ。白河の関を越えて後、かえって雪なく、割に暖かし。東北の山々を眺めて北に進む。嘗て唯一人往った道を今また唯一人還るの感慨なり」
仙台から「福島付近より雪浅く、仙台に近づくにつれて全く雪なし。応召気分とは補足しがたきものである。戦争という大いなる力に人間一人が哀しくも掻きこまれて行く姿に違いないが、といって怒りも感ぜず、不平も不安も感ぜず、言葉にすれば一筋に往くの道を脳裏に刻みあることを覚えるのみである。知識人として自負しているものある自分にして、応召された自分の心理解剖の困難さを知る。酒でも呑み、感を鋭くせば、人間の本音が出るかという風にも考える」
◎3月4日,真喜の日記“雪。鷺の宮より電話あり。義弟の行夫にも召集令状ありとのこと。十五日,横須賀海兵団に入団のよし……”
◇3月4日、花巻から「たそがれは哀しきものである。茅葺き屋根の百姓家が枯れ山の中に夕餉の煙をうすく、乳色にうすれ行く夕空に昇らせている。車窓の雪のみ白々と山端のかなたに展がる。車馬の轍の乱れた部落路をモンペの娘が二人駈けていくのを見る。すっかり暗くなって黒沢尻駅に着く。平野小父の家に泊まる」
◇3月4日, 盛岡から「吾一さんが令状を持って平野宅に現れた。令状によれば歩兵であり、弘前に入ることになっている。兵科は歩兵でもやはり土方か材木運搬が作業らしい。黒沢尻からの車中一緒になった連中も相当スゴイ年輩者ばかりでこれは大した部隊ができるワイと可笑しかった。黒沢尻で朝湯に入れて貰ったのでサッパリした気持ちで入営できるのが嬉しい」
◇3月4日 弘前から「定刻盛岡を発つ。兵のみの列車で北に向かう。途中の駅々で歓迎の歌を聞きながらうつらうつらと眠る。夜を徹し高声にて喋りまくっている既教育兵あり。人間興奮するとやはり若干異常を呈するものらしい」
◇3月9日、元が弘前から「部隊に到着し、通信許可あり次第、音信する。部隊の生活は最初の三日ほど心落ち着かず、空虚なものであったが、四日目ごろから暢気になった。唯夜冷たく足の暖まらぬため眠りに入れぬのが辛かった。これも工夫して四日目の夜からよく眠った。夢をよく見るが埒のないものばかり」と真喜に葉書。検閲済みの印が押してないので、ひそかにポストに投函したものであろう。これ以降、満州に渡るまでほぼ毎日のように真喜宛の葉書が来ている
◇3月10日,未明からB29爆撃機140機による東京大空襲。罹災者150万人,死傷者17万人
◇3月10日、元から「ここにきて今日で六日目、ようやく何も考えなくなったのんびりと西陽のさし込む窓際の寝床に坐ってこのハガキを書いている。弘前というところは、よく雪の降るところだ。すでに五尺も積もっているのに,ここにきてから今日まで一日として雪が降らぬ日なく、その雪の合間に陽がさす時間が一日に半時間位ある。寒さには慣れていた筈だが、陸奥の寒さは格別、凄じい寒気だ。外地行きの準備はもう殆ど完了した。出発はいよいよ間近い」と真喜に葉書
◇3月14日、元から「もう弘前にいなくなっていると思っているだろうが、まだいる。出発する日や行く先は判っていても書くわけにいかない。橋本会長にユカリの深い国境の町に行くと言えばお前にも想像がつくかもしれないが・・」と真喜に葉書
◎3月17日,真喜の異父弟金一郎に再召集がかかる。真喜は上田に疎開。硫黄島守備隊の23000人が全滅
◇3月17日、元から「17日夜七時半いま入浴して部屋に戻る。ここにきて初めてゆっくり風呂を使ったのでいい気持ちだ。寒さを感ぜず、湯上がりのゆたかな体温をたのしみつつ足を投げ出し、このハガキを乏しい光をたよりに書く。こんな文章を綴る余暇があること自体愉しみである。そしてこのたよりが多分当分の別れとなる」と真喜に外征出発を予告する葉書
◇3月20日、元から「空低く絶えず悪気流に影響されて一日として雪を見ぬ日のなかった弘前の生活もようやくうち切って、いま一路南下しつつある。薄暗い朝空を覆う烏の大群が低く飛び交う弘前は何となく陰気でいやな土地であった。積雪いまなお四、五尺もあり、途中盛岡付近ですっかり雪の消えているのを見るとそれだけで心も明るく軽やぐ気持ちであった。夜中東北より関東に入り、常磐線を通って東京に上りつつある。二度と見まいと思った東京の下町の爆撃状況もまた視ていけそうである。東京の土をいま一度踏めるのであろうが誰とも会えまい。しかし、それで自分は満足である」と真喜に葉書。やはり検閲の印がない
◇3月21日、元から「いま姫路を過ぎて中国筋にかかっている。暢気だ。神戸通過のときに爆撃状況にちょっと一驚した。土地が狭いのでよけい目立つのだとも言えるが、東京以上といった印象を受けた。今夜はどこまで行きつくか判らないが、人まかせの旅を続ける」と真喜に葉書
◇3月22日、元から「夜中の中国筋は細雨であった。関門を経て九州に夜明けとともに渡る。雨が上がって数年前に見たことがある山々が青染んでいる。あと二、三時間で博多だ。本土の旅もここで終わる。そろそろ下車の用意にかかる」と真喜に葉書
◇3月26日,古澤元はこの日付の葉書を最後に,博多から弘前部隊最後の渡満に従軍。満州から出された軍事郵便が3通残っている。なお,軍事郵便には日付がない。
“東京を引上げて了ったろうと思うが,その後のお前達及行夫の様子を詳細に知りたい。自分は歌の文句ではないが,益々元気旺盛,初年兵さんは多忙この上なしの生活をしている。(中略)/会長,武田先生,雨谷さんにはたよりするが,外の人達にはよろしくお前からたよりされたし。岳父殿,金一郎殿によろしく。軍隊生活の注意,金坊によく聞くこと”
“朝鮮から便りをもらって東京の皆のこともよく判って心大いに穏やかになった。(中略)お陰で鏡花や西鶴や武田先生の著書が皆無事峠越えして信州へ行けたと胸を明るくしている。この戦争に本の心配でもないのは判っているが,やはり自分の生活のすべてであった本に対する愛着は,人情として赦して貰えるものと思う。/金ちゃんはまたお召とのこと,元気で出かけられた由。岳父殿ご多忙お気の毒と思う。お前のできる限りのことは,骨身惜しまずお手伝いして十二分のことをして貰いたい。/泰子,拓,稟のことも時々知らせよ。(中略)体はどうか。また肋膜炎を起こさぬようその点によく気をつけ,不要の痩我慢はせぬよう,これはとくに注意する。(後略)”
“朝鮮から便りをもらって”というのは朝鮮に渡っていた義父・母から,“泰子”は行夫の妻,“拓”と“稟”はその息子たちの名である
“皆んな変りなしか。襄のこの頃の様子はどういう風だ。少しは中学生らしくなったか。もう五月も近い,信州の風物も春らしいものになったろう。時々はラジオで内地のことも聞く。(中略)私は元気だから心配はいらない。/今の自分は,自分のことよりむしろ,お前達のことや,武田先生その他知人友人のことを案じる気持の方が強い。おばあさんは丈夫か。工場の方も忙しいだろうと思うが,岳父殿の体はどうだ。金坊のことも妙に気になる(後略)”
*6月23日,沖縄本島守備隊9万人全滅,民間人10万人死亡
*8月8日,ソ連が参戦
◇8月15日,敗戦。詔勅を真喜・襄母子は上田市に近い塩田村の疎開先で聞く。古澤元はシベリアのブリヤート・モンゴル自治共和国に抑留される
*10月4日,連合軍総司令部から特高警察・治安維持法の廃止,政治犯釈放などの指令,教科書の軍国主義的の個所に墨を塗る通達が出される
◇10月12日,武田麟太郎と長男文章(6歳)が長野市緑町の妹文子宅に1週間ほど滞在した帰途,塩田村の真喜・襄を訪ねて一泊
*10月13日夜,武田麟太郎・文章親子が疎開先の甲府に近い正覚寺に帰着
◇12月,真喜・襄は上田市郊外の鎌原(かんばら)に転居
■1946年(昭21) 元40歳・真喜37歳・襄15歳
*1月1日,天皇は神格化を否定
◇1月4日,GHQは軍国主義者の公職追放,超国家主義団体の解散を指令。古澤元は“極端な国家主義者”として公職追放の指定を受ける
◇3月中旬,真喜が様子見に上京して中野区鍋屋横丁の藤村千代の家で一泊。ここで武田麟太郎と会う
◇3月31日,武田麟太郎が肝硬変のため急逝
◇4月2日,真喜は神奈川県藤沢市の武田麟太郎家で行われた葬儀に駆けつけ,その席で高見順と会う
*4月10日,女性の参政権を認めた新選挙法による第22回衆議院議員総選挙
◇5月3日,古澤元がバイカル湖のほとりのウラン・ウデ病院で栄養失調のため死去(死亡告知書)厚生省社会・援護局の『ソ連抑留死亡者名簿』によれば,死亡年月日が“5月6日”埋葬地が“ブリヤート自治共和国第九四四特別軍病院墓地”となっている。年は数え40歳,満38歳。真喜・襄のもとに通知が届くのは1949年(昭24)10月20日付け死亡告知書で,厚生省発行の公報に掲載された。戒名は俊峰院無徹玉量居士