年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(8) 吉田仁・古沢襄共編

■1947年(昭22)   真喜38歳・襄16歳
*1月18日,全官公庁労組が400万人を動員する2月1日のゼネストを宣言
*1月31日,GHQが2.1ゼネストの中止を命令
◇1月,真喜の実家である木村陶器店が再開
◇5月3日,古澤元没後1周年
*沢内村公選第一回村会議員選挙で北島暲男ら22人が当選

■1948年(昭23)   真喜39歳・襄17歳
◎3月,真喜は襄を東京に呼び寄せ,中野区野方の義弟行夫と泰子に託す。この家には拓と稟の息子ふたりと,朝鮮から引き揚げてきた両親の孝三・トヨがいた
◎この頃、画家の小角又次、新劇俳優の森幹太が岸丈夫の自宅に屡々訪れる
☆4月,襄は都立四高2年に編入、四高は翌年都立戸山高校に校名変更
◇5月3日,古澤元没後2周年
*6月,ソ連から抑留者が多数帰国
*6月13日,太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水自殺
◎9月初旬,真喜は藤村千代を訪ね,高見順の消息を聞く

◇10月初旬,古澤元の死が判明。上田の実家に元の最期を看取った友人の小笠原八郎(青森県木造町)が電話で連絡し,数日後に行夫と襄が青森に出向いて詳細を聞いた
*10月15日,第二次吉田内閣発足
*11月12日,極東国際軍事裁判所が,A級戦犯25人に有罪を判決。東条英機ら7人に絞首刑,木戸幸一ら16人に修身禁固刑,1人に禁固20年,1人に禁固7年。橋本欣五郎は修身禁固刑だった
*12月23日、東条英機ら7人の絞首刑を執行

■1949年(昭24)   真喜40歳・襄18歳

◇5月3日,古澤元没後3周年
◇10月20日,厚生省発行の公報に掲載された死亡告知書はこの日付である。“陸軍兵長 古澤玉次郎/右は昭和二十一年五月三日 栄養失調症兼心臓大(ママ)によりソ連ブリヤートモンゴール自治共和国ウランデー病院で戦病死されましたから御知らせ致します/昭和二十四年十月二十日”。あとで届いた遺骨箱には“古澤玉次郎”と墨書された一枚の紙片が入っているだけだった。紙切れ一枚の“遺骨”は新宿区下落合の旦那寺に預けられた
◎この年,真喜の義父貫一が死去。異父弟の金一郎が当主となる
*北島暲男が沢内村議会の議長に選ばれる

■1950年(昭25)   真喜41歳・襄19歳
☆3月,襄は都立戸山高校を卒業。駿河台予備校に通学
◎3月31日,真喜は武田麟太郎の祥月命日に行われている“番町会”に,はじめて出席
◇5月3日,古澤元没後4周年
*6月25日,朝鮮戦争が始まる
*沢内村公選第二回村会議員選挙で北島暲男再選、議長にも再選

■1951年(昭26)   真喜42歳・襄20歳
☆2月,襄は東大受験に失敗するが,早稲田大学政経学部に合格。早稲田に席だけおいて平凡社の歴史辞典編集部でアルバイトを始める
◎☆春,真喜は目黒区大橋のアパート6畳間に転居して襄と同居。隣室に渡辺美智雄の従弟・渡辺幸雄が那須から上京してきた。襄とは生涯の刎頸の友となる
◇5月3日,古澤元没後5周年
*6月28日,林芙美子が急死,享年46
*9月8日,サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印

■1952年(昭27)   真喜43歳・襄21歳
◇この年,遺族年金の支給が始まる
*2月28日,日米行政協定成立
◇5月3日,古澤元没後6周年
*8月,高見順が「昭和文学盛衰史」を『文学界』8月号から連載開始

■1953年(昭28)   真喜44歳・襄22歳
*3月5日,スターリン死去
☆4月,襄は早稲田大学を中退、埼玉大学に入学
◇5月3日,古澤元没後7周年

■1954年(昭29)   真喜45歳・襄23歳
*4月21日,造船疑獄事件で犬養法相指揮権発動
◇5月3日,古澤元没後8周年
◎この年,真喜の祖母治家が脳溢血のため死去
*12月7日,吉田内閣総辞職
*12月10日,鳩山内閣発足
*北島暲男が沢内村村議会議長辞任

■1955年(昭30)   真喜46歳・襄24歳
◇5月3日,古澤元没後9周年
*11月15日,保守合同で自由民主党結成
◇11月28日、古澤トヨ死去

■1956年(昭31)   真喜47歳・襄25歳
◇5月3日,古澤元没後10周年
☆夏,襄は石塚恵子と婚約
◎☆12月,真喜・襄は世田谷区奥沢のアパートに転居。近くに元の叔父,母トヨの義弟の平出英夫(元海軍少将)一家が住んでいた
*12月12日,国連に日本加盟
*12月23日,石橋内閣発足

■1957年(昭32)   真喜48歳・襄26歳
*2月25日,岸内閣発足

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