秋になったら夏に続いて信州旅行をするつもりでいたが、急遽、それを変更して東北の津軽旅行をすることにした。東北の古代・中世史を考察するうえで、津軽地方の歴史は無視できない。個人的なことをいえば、父・古沢元は弘前の第八師団から満州のハイラルに渡り、侵攻してきたソ連軍と戦った。また第八師団は昭和天皇の皇弟・秩父宮少佐が大隊長として赴任している。二・二六事件の頃である。
三年前に亡くなった沢内村元助役の佐々木吉男氏は第八師団第三十一連隊の兵卒だったが、昭和11年(1936)の9月から10月にかけて北海道の陸軍特別大演習に衛生兵として秩父宮少佐と行動をともにした。
粗末な田舎の納屋で、皇弟らしくない庶民的で人情味ある上官だった秩父宮に惚れ込んだ佐々木衛生兵は「北海道は蕎麦の産地であります」とつい言ってしまった。言ってしまってから大演習なのに余計なことを言ったと首をすくめた。
大演習が終わって弘前師団に戻ったある日、秩父宮大隊長から佐々木兵卒が呼びだされた。恐るおそる出頭した佐々木兵卒に対して秩父宮は「ソバとは何か!」と聞いてきた。北海道大演習の時のことを秩父宮少佐は覚えていた。
直立不動で「食べれば、分かるであります」と佐々木兵卒。すると秩父宮少佐は「ソバを食べる」と言って弘前市内に出たという。騎乗の秩父宮少佐を案内役の佐々木兵卒が追いかけた蕎麦話を佐々木吉男氏から何度も聞かされた。
津軽旅行では弘前市と五所川原市を訪れるつもりでいる。西和賀町の前町長だった高橋繁さんから「一緒に津軽旅行をするから・・・」と手紙を頂戴した。マイカーで案内して頂くことになった。足腰に自信がない私にとって、これほど頼りになる”相棒”はない。
というわけで「秋田家文書」と「東日流外三郡誌」を読み較べながら津軽旅行の準備に専念している。とくに「秋田家文書」の中の「十三湊新城記」は面白い。秋田元子爵家の所蔵本(現在は東北大学付属図書館所蔵)で歴史史料としては疑わしい点もあって、一等史料とは言い難く「偽書」と酷評する学者もいる。
「偽書」といえば「東日流外三郡誌」も世間を騒がした本である。だが十三湊については同時代史料が残されていない。言い伝えや伝聞で十三湊が伝わってきた。「蝦夷管領」安藤(安東)氏の歴史と共に、その実態は謎に包まれていた。
だが1991年から93年にかけて国立歴史民俗博物館と富山大学考古学研究室が十三湊遺跡の学術調査を行なった結果、中世の十三湊の姿はかなり明瞭なものになってきている。
12世紀に十三湊は津軽・安藤氏の支配下で確実に存在し、13世紀から14世紀にかけて計画的な都市建設が行われていた。安藤氏は1432年に南部氏との戦(いくさ)に敗れて北海道へ退去していた。しかし十三湊遺跡からは中国や朝鮮からの輸入陶磁、能登の珠洲焼き、古瀬戸などの陶磁器類が発掘されて、往時の十三湊の繁栄を裏付けている。
この十三湊は五所川原市(旧市浦村)の十三湖の辺りにあった湊とされている。五所川原市の歴史民俗資料館(市浦地区)は中の島ブリッジパーク」内にあるが、十三湊についての貴重な資料を展示しているので、時間をかけて見学するつもりでいる。
国史跡指定となった十三湊遺跡は五所川原市十三地内にある。面積234,193.69㎡で港湾施設地区39,875.20㎡、町屋・武家屋敷・領主館地区 140,424.51㎡、檀林寺跡地区53,893.98㎡という厖大なものである。
十三湊遺跡の発掘調査によって、伝承で伝えられてきた興国元年(1340)の大地震による興国大津波で
十三湊が壊滅した説は見直されている。近年の発掘調査によって、遺跡の残りが非常に良く、15世紀中頃に遺跡が衰退・廃絶していることが判明した。
さて、話は変わるが弘前駅前に津軽ソバを食べさせてくれる店があると聞いたことがある。明治40年代に開業の老舗だから、佐々木吉男さんが秩父宮を案内した店かもしれない。津軽ソバは白くて肌理(きめ)が細かく、つゆは陸奥湾でとれたイワシの焼き干しとコンブに醤油味。それをモミジおろしで食べる。その店が今もあるのか分からないが、楽しみのひとつ。
安倍晋太郎氏が岡本太郎さんと訪れた五所川原市の石搭山・荒覇吐(あらはばき)神社にも行くつもりでいる。とてもじゃないが一泊二日でこなせる日程ではない。寒くなる前に行くつもりで、高橋繁さんと鳩首、日程調整をして津軽旅行に旅立つ。