戦前は東京府立第一中学(日比谷高校)や第四中学(戸山高校)といったナンバースクールに人気があった。教育熱心な親たちは、一中の進学率が高い番町小学校に子供をいれた。作家・武田麟太郎の長男文章さん、次男穎介さん(いずれも故人)は、私の幼友達だが番町小学校に通っている。
四中の進学率が高かったのに愛日小学校がある。牛込区北町(新宿区)にあって戦時中に空襲で焼失したが、戦後、復旧している。俳優の勝新太郎は、ここの卒業生。菊組という男子ばかりのクラスで六年間、机を並べて勉強したものだが、喧嘩が滅法強い男だったという印象が残る。
同じクラスに広沢中任(なかとう)さんという勉強ができる子がいた。四中に進み、東大教養学部を卒業してTBSに入社している。私と同年だから七十五歳。仲の良い友達だった。兄が高任(たかとう)さん、弟が末任(すえとう)さんの三人兄弟。
いずれも「任」の名がつくので、不思議な気がしていたが、当時は広沢牧場主の一家という程度のことしか知らなかった。戦後になって競争馬のサラブレットで「ヒロ」がつく馬は広沢牧場から出ていると教えられた。
やがて中任さんの曾祖父は会津藩士・広沢安任で、戊辰戦争で敗れて、遠く下北半島に流され、その地で畜産業を始めて成功したことを知った。広沢安任は「奥隅(おくぐう)馬誌」という著作を遺している。
ある時、中任さんと喋っていたら「東北の安倍一族の末裔なんだってさ・・・」と言いだした。「奥隅馬誌」には、自分が朝廷によって滅ぼされた安倍一族の末裔であることを一切触れていない。
しかし秘かに北の王者だった安倍貞任、宗任の末裔であることに誇りを持っていたことは、直系の一族に「任」の名をつけたことで窺い知ることができる。
安倍一族のことは「陸奥説話」に詳しく記録されているが、この底本は安倍一族を滅ぼした朝廷があった「京洛」で作られ、木版印刷物として市井に流布されたものである。
後世になって「前九年の役」について「吾妻鏡」にも記録が出てくるが、この記録も鎌倉幕府の公用日記。いうなら征服者の視点で書かれている。
近年、「衣川資料」なる膨大な史料が発見され、征服者の視点ではない安倍一族の興亡史が明らかにされている。そこには安倍一族に伝わったとされる「一族の掟」五編などや「軍律」が出ていて、征服された側の貴重な資料となっている。
視点が正反対な史料を読み較べることによって、北の王者の真の姿が浮かびあがってくる。伝えられた歴史資料というのは、編纂者の視点によってかくも違うものか、正史といわれるものと民間に伝わる民俗史との違いには、興味を駆られる。
最近になって十世紀ごろの京都でもてはやされた「糠部の馬」が「尾駮(おぶち)の馬」といわれて「後撰和歌集」などに出てくることを発見した。尾駮村は今の青森県六ッ所村のことで、平安時代から名馬の産地として知られていた。「尾駮の馬」と広沢牧場についても調べるつもりでいる。